『審判』についての覚え書き

多くの近代小説は、意識的なエゴイズムによって、己が悪行を正当化する様を描いた(例:羅生門)。
また、激情からふと他人を忘れ、無意識的なエゴイズムにはしってしまったことによる悲劇と、人の利己性というむなしさを描いた(例:こころ)。


武田泰淳の初期の短編『審判』に見出される利己性は、上記のどちらにも当てはまらない。


『審判』の主要登場人物、「二郎」は、先の大戦で中国に従軍する。その際、日本軍によって破壊された農村で、二人の老夫婦がうずくまっているのを見つけた。


二郎は、彼らに銃口を向ける。


「殺そうか」
フト何かが私にささやきました。
「殺してごらん。
ただ銃を取り上げて射てばいいのだ。
殺すということがどんなことかお前はまだ知らないだろう。
やってごらん。
何でもないことなんだ。
ことにこんな場合、実さい感情をおさえることすらいらないんだ。
自分の手で人が殺せないことはなかろう。ただやりさえすればいいんだからな。
自分の意志一つできまるんだ。
そのほかに何の苦労もいらんのだ。」
伍長が立ち去ったあと、この地球上には私と老夫婦の三人だけが取り残されたようなしずけさでした。
五月二十日の午後です。
かすかに靴の下の土が沈み、風がゲートルをまいた足のあたりを吹き抜けたらしい。
私は立ち射ちの姿勢をとりました。
老夫の方の頭をねらいました。
二人は声一つたてません。
身動きもしません。
ひきがねの冷たさが指にふれました。
私はこれを引きしぼるかどうかが、私の心のはずみ一つにかかっていることを知りました。
止めてしまえば何事も起こらないのです。
ひきがねを引けば私はもとの私でなくなるのです。
その間に、無理をするという決意が働くだけ、それできまるのです。
もとの私でなくなってみること、それが私を誘いました。
】 全集二巻p18


二郎が、語り手である「私」に残した手紙にはその時のことが上記のように記されている。
二郎は戦時中とはいえ、非戦闘員を全くの無意味に射殺したのである。


『こころ』の「先生」も『羅生門』の「下人」も、無意識的か意識的かの違いはあれど、彼らの行為は一応、エゴイズムという概念で捉えることができる。
「先生」は自分の恋のため「K」を裏切り、「下人」は自分が生きるために「老婆」から服をはぎ取った。


しかし、二郎の悪行はもはや上にあげたようなエゴイズムとかいう概念で収まるものではないように思える。
なぜなら彼の行動は、ほとんど彼に利益をもたらさないからだ。焼け果てた農村で、ほっといたら数日後に餓死するであろう老人を撃ち殺すことは、二郎に何の利益をもたらさないからだ。
彼は何のために老夫を撃ち殺したのか?
答えはない。
あえていうなら、フト思いついたから。
しかしそんな理由では、「先生」や「下人」の理由に比べ、多くの人の賛同を得られぬであろう。
いやもっと強く言おう。二郎の行為は「先生」や「下人」の行動に比べ、理解できない。おぞましく、徹底的に忌避すべき行為だ。


また、フトした感情、つまり無意識的にわきおこった欲望で行ったという点で、その時の彼の行動・感情は、人間の悪性の根源を表出しているといえる。
だからこそ、私たちは彼の行動に恐れを抱き、この点からも二郎の行動を忌避せざるをえない。


しかし。
二重の意味で忌避すべき二郎の行動。しかし、その二郎の強烈な語りにのみこまれ、共感してしまう自分がいるんだよね。
二郎の悪行は上記のように、フトした感情で行った、理解できない恐ろしい行為。
でもこの恐ろしさを、人はみんな、もったまま生きているんじゃないか?


《20080615の記事》