海峡の光

海峡の光
辻 仁成 初出1996 新潮社

内容(「BOOK」データベースより)

廃航せまる青函連絡船の客室係を辞め、函館で刑務所看守の職を得た私の前に、あいつは現れた。少年の日、優等生の仮面の下で、残酷に私を苦しめ続けたあいつが。傷害罪で銀行員の将来を棒にふった受刑者となって。そして今、監視する私と監視されるあいつは、船舶訓練の実習に出るところだ。光を食べて黒々とうねる、生命体のような海へ…。海峡に揺らめく人生の暗流。芥川賞受賞。

感想

○語り手「私」(斎藤)は刑務官。そんな「私」のもとに、「私」を小学六年生の頃、いじめていた人間が囚人としてやってくる。彼の名は「花井修」。花井修は、集団の中に巧みにヒエラルキーを構築し、集団を意のままに操る人身コントロールの天才だった。そして、集団を操作して人をいじめることに喜びを見いだすような狂気の人でもあった。

結局、この小説は、語り手「私」が、かつて自分をいじめた「花井修」に精神的にまったく捕らわれてしまう話、といえるだろう。語り手「私」は花井の言動をいたく気にしてし、そしてその言動にいちいち心を動揺させられる。刑務官と囚人ということで、今や自分の方が圧倒的に優位な立場にいるにも関わらずである。
また、人心コントロールに天才的な力を発揮する一方で、刑務所内でわざと問題を起こすなど、不可解な言動を繰り返す花井修に語り手も読み手も振りまわされる話、ともいえると思う。

そして語り手「私」は、天才かつ不可解な花井修に、超俗した一種の神聖とでもいえる精神をたびたび見てしまうのが、本書の肝だろう。
もっとも、その気持ちはあまり理解できなかった。私は単に、「花井修」が狂った人間としか見えなかったのである。花井ほど地頭のよい人間が暴力事件を起こしたり、試験にわざと落ちたり、わざと刑務所に長くいることになるような行動をとる。読者からすれば感情移入もできないし、そもそもそんな人間が本当にいるのかうさんくさいほど。

そこに、語り手「私」が超俗した精神を見てしまうのは、「いじめた者」・「いじめられた者」という関係性が、「花井修」と「語り手・私」のなかにあったからだと思う。その関係性の狂気を描こうとしたのだろうか。まあ、そういうお話だった。


○インターネットを見ているといろんな感想に出会う。曰く、人間の暗部を描いた傑作、といった評が多かった。しかし、それがどんな暗部なのか具体的に述べたものは、20くらいザッピングする中では一つもなく、本書の淡泊さ、中身のなさに逆に確信がもてた。

おもしろいなと思った他者の指摘

斉藤は花井に(中略)別れ際に「偽善者」という言葉を発した。神聖でかつ皆より優位に立ちたかった花井にとってみたらこれほど屈辱的な言葉は無かったんじゃないだろうか。「偽善者」という言葉は花井の行動の全て、考えの全てを見透かした上での発言だ。この言葉を発したことにより斉藤は花井の上に立ったんじゃないだろうか。花井のことだから斉藤が猫を助けていた事も実は知っていたかもしれない。

そして花井は偶然にも刑務所の中で斉藤と出会った。しかしだ、ここでも斉藤は素晴らしい人間であるのだ。普通の看守なら花井をイビリ倒すだろう。花井が昔自分にどんなことをしたか仲間の看守に話、とことん苛めることだって可能だったはずだ。けれど斉藤は全く自分の事を話さない。まるで過去の出来事は無かったかのように、斉藤は毎日自分を見張るだけ。花井が脱走劇のようなものを繰り広げた時だって斉藤は手を出さなかった。斉藤が一番最初に花井の体を引きとめたにも関わらず、彼は体を掴むだけ。そして後から駆けつけた他の看守は花井を殴ったり蹴ったりする。花井からしてみたら斉藤こそが超越した存在なんじゃないだろうか。

花井の出所日、斉藤は「お前はお前らしさを見つけて、強くならなければ駄目だ」と言う。斉藤はいつもそうだ。最後の最後で強烈な言葉でお見舞いしてくれるのだ。花井が殴ったのが故意なのか不意なのか私には分からない。けれど箍が外れて殴ってしまったというよりも、後に続く“−分からんのか、俺はずっとここにいたいのだ。”という言葉どおり、自分より常に優位に立つ斉藤への怒り、ずっと優位に立ち続ける斉藤への嫉妬など、色んな思いがこもっての反逆だったようにも思う。

「映画備忘録」http://kaigai444.blog57.fc2.com/blog-entry-302.html

花井なる人物の造型は不可解。一種の悪の天才が、むしゃくしゃしたからという理由で人を傷つけ刑務所に落ちてくるなどということがありうるか。また刑務所内でも悪を露出する彼がずっと所内にとどまることを望むなどということが。肝腎の貧しい漁師の息子たる看守には、その出自に見合わせたのか、洞察力というものがまるでない。看守という職業にありながら、映画「es」で摘示された人間の攻撃性への洞察がない。人間悪を追及するならその視点は不可欠だろう。なにか「無情やな」というような詠嘆で終りがちな日本の小説の、ある意味でこれは典型的な例である。

「文芸的な、あまりに文芸的な」http://d.hatena.ne.jp/lombardia+bungeitekina/20120628/1340861223