人間の土地

超おすすめ!!
人間の土地
サン=テグジュペリ (著), 堀口 大学 (翻訳)  1939(原著) 新潮社

内容、裏表紙より

“我慢しろ…ぼくらが駆けつけてやる!…ぼくらのほうから駆けつけてやる! ぼくらこそは救援隊だ!”サハラ砂漠の真っ只中に不時着遭難し、渇きと疲労に打克って、三日後奇蹟的な生還を遂げたサン=テグジュペリの勇気の源泉とは…。職業飛行家としての劇的な体験をふまえながら、人間本然の姿を星々や地球のあいだに探し、現代人に生活と行動の指針を与える世紀の名著。

メモ

「真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ。」p42

「また経験はぼくらに教えてくれる、愛するということは、おたがいに顔を見あうことではなくて、いっしょに同じ方向を見ることだ。」p216

「 機械でさえも完成すればするほど、その役割が主になって、機械それ自体は目立たなくなってくるのがつねだ。人間の生産的努力のすべて、その計算のすべて、図表を前の徹夜のすべても、外面的な表われとしては、ただ一つ単純化に達するに尽きている。(中略)機体についている翼があるという感じがなくなり、最後には完全に咲ききったその形が、母岩から抜け出して一種奇跡的な天衣無縫の作品として、しかも一編の詩作のようなすばらしい質をそなえて現れるときまで、この調和を軽快にし、目立たなくし、みがきあげるにほかならないと思われる。完成は付加すべき何ものもなくなったときではなく、除去すべき何ものもなくなったときに達せられるように思われる。」p62

「何ものも、死んだ僚友のかけがえには絶対になりえない、旧友をつくることは不可能だ。何ものも、あの多くの共通の思い出、ともに生きてきたあのおびただしい困難な時間、あのたびたびの仲違いや仲直りや、心のときめきの宝物の尊さにはおよばない。この種の友情は、二度とは得がたいものだ。樫の木を植えて、すぐその葉かげに憩おうとしてもそれは無理だ。」p41

「人間であるということは、とりもなおさず責任をもつことだ。人間であるということは、自分には関係がないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、自分の僚友が勝ち得た勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、自分の石をそこに据えながら、世界の建設に加担していると感じることだ。」p57

「今日の世界を把握するに、ぼくらは昨日の世界のために作られた言葉を用いているわけだ。過去の生活が、よりよく人間の性情に適するように思われるというのも、理由は、ただ過去の生活が、よりよくぼくらの用語に当てはまるからにほかならない。」p61

「飛行機は、目的でなく、手段にしかすぎない。人が生命をかけるのは飛行機のためではない。農夫が耕すのは、けっして彼の鋤のためではないと同じように。ただ飛行機によって、人は都会とその会計係からのがれて、農夫の真実を見いだす。人は人間の働きをしてみて、はじめて人間の苦悩を知る。人は風に、星々に、夜に、砂に、海に接する。人は自然の力に対して、策をめぐらす。人は夜明けを待つ、園丁が春を待つように。人は空港を待つ、約束の楽土のように。そして人は、自分の本然の姿を、星々のあいだにさがす。」p167

「他人の心を発見することによって、人は自らを豊かにする。」p44ページ

「ぼくらは直線的な弾道のはるかな高さからぼくらの発見する、地表の大部分が、岩石の、砂原の、塩の集積であって、そこにときおり生命が、廃墟の中に生き残るわずかな苔の程度に、ぽつりぽたりと、花を咲かせているにすぎない事実を。p66

「たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことができる、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。」p224
→ということは、「平和な死」とは、意味ある死のことになる。そして「平和でない死」は意味のない死になる。

感想

 著者は、第二次世界大戦にイギリス空軍のパイロットとして従軍した。その経験をもとに、アフリカを舞台とした短編集。

 アニメーション監督である宮崎駿はある本で、現在のように安全性の高い航空機と違い、昔の航空機は技術が未発達で危険と常に隣り合わせだったことをふまえ、次のように述べている。

 「パイロットは全神経を集めて、風景のわずかな兆しの中に天候の変化を読みとろうとした。白い雲も強固な岩山に等しい危険な罠。空が気紛れなひと吹きで、郵便機を破壊してしまうのを彼等はよく知っていた。充満する危険の中で、張りつめ覚醒した彼等の見た世界はどんな眺めだったのだろう。
 風景は、人が見れば見るほど磨耗する。今の空とちがい、彼等の見た光景はまだすり減っていない空だった。今、いくら飛行機に乗っても、彼等が感じた空を僕等は見る事ができない。広大な威厳に満ちた大空が、彼等郵便飛行士達を独特の精神の持主に鍛えあげていったのだった。」

 空をとぶことは危険に満ちていた。まして本書の主人公たちは戦闘機のパイロット。危険な空、張りつめた空での命のやりとり。空という究極の高度を舞台に、乱れ飛ぶのは機銃掃射。位置の取り合い。ピリピリと神経の痺れるような空。敵機に気づかれず初手を撃てれば最高だ。自分の乗っている戦闘機が落ちれば当然死ぬし、対物機銃が人間に当たれば即、致命傷である。そうした緊迫した空中戦がまず印象的だった。

 本短編集を読んでいて気づいたのは、語り手による美しい自然描写だ。特に「光」と「時間、空間変化」の描写が印象的だった。このような語りは、命がけで自然の微妙な変化を見極め戦闘機を繰っていた主人公たちと重なる。

 主人公たちはいつ死ぬかわからないという状況によって、日々死と向き合っている。だからこそ「生」のありがたさ、「世界」のありがたさ、そしてその美しさに気づくのではないだろうか。生きているからこそ世界の美しさを感じることができる。本書の自然描写は、主人公たちの無意識を投影しているのだろう。そしてかれらは、死を目前にした日々の戦闘によってこそ、この考えを残酷につきつけられている。