「近代文学における「私」・素描」より

「 暮夜の重い沈黙に醒めて、ひそかに〈私とはなにか〉を問い、泥酔して迎えた朝の薄明に、〈ここに曳く己の影〉の奇怪さにおどろく刻を持って以後ーーー人間がその存在の深奥に補足しがたく、制御しがたい〈私〉を飼うことを覚えて以後、といいかえてもいいーーー文学はその得体の知れぬ怪物をなだめすかしながら、なかば絶望しつつ、幽暗の彼方にくらむ正体を見きわめるための孤独な密室の作業と化した。認識のあやうさを知り、それがいつか破れることを予感しつつ、自己認識の円環の閉じる徒労に似た作業である。小説はこのとき、ロマンのための開かれたサロンから〈私〉の閉じた領域に回帰した。作家はかくて、他者との共有による日常性への拡散を本質とする言語によって、しかも、言語の共有部分を究極的には否定せざるをえない内的言語に依拠しつつ、〈私〉の文体を模索するという困難に逢着するはずである。この二律背反に直面した文学(小説)を、われわれは近代文学と呼ぶ。」


三好行雄 「近代文学における「私」・素描」より 1971


小説という芸術は、私たちにとってどのような意味をもちうることができるのか?


それを端的に示した名文だと思う。


《20080622の記事》