幽州台に登る歌

僕は昔、漢詩が好きだった。


多くの詩選集を読みあさったなあ。
日本の和歌も好きだけれど、日本の和歌にはないあの力強さ。
気持ちの良い直情!
書き下し文の調子の良さには、何にもかなうまいと今でも思う。


それらの中に一つ、忘れられない詩がある。


「幽州台に登る歌」 


陳子昂


前に古人を見ず
後ろに来者を見ず
天地の悠悠たるを念い
独り愴然として涕下る


どのように読解するのが、当時の状況に則した「正しい」読みなのか忘れた。
それにその読みは、いささかつまらなかったと記憶している。
だから今、現代に生きているこの私が、勝手に解釈して話を進めよう。


これは孤独をうたった詩だ。
人が人として生きる上で対面せざるを得ない絶対的な孤独と、その悲しみをうたった詩だ。
この詩のすばらしい点は、空間的な孤独だけでなく、時間的な孤独をうたった点だと思う。


前に古人を見ず。


Yes.
私たちの前に古の人なんていない。
確かに先人はいる。私たちの前の時代を生き、その命や精神を私たちに紡いできた人は星のようにたくさんいる。
しかし、それは観念に過ぎない。
そんな人たちは実際、私の前にはいない。


後ろに来者を見ず。


Yes.
私たちの後ろに未来の人たちなんていない。
確かに後人はいる。私たちの後の時代を生き、私たちの命や精神を引き継いでいくであろう人たちは星のようにたくさんいる。
しかし、それは観念に過ぎない。
そんな人たちは実際、私の後ろにはいない。


歴史という名の直線を引いたとき、一見、私の前には古の人たちがいっぱいいると思うかもしれない。一見、私の後ろには未来の人たちがいっぱいいると思うかもしれない。
しかし、それらはただの観念だ。だって私は彼らと何も交わすことができないのだから。
時間的に俯瞰的な視点から見たとき、私が古の人とも未来の人とも完全に隔絶したところにいることが分かるだろう。どんなにあがいても私は彼らと真に交流することはできない。人は、時間という名の絶対的な檻の中に一人でいるのだ。私の前後は完全に空虚である。


天地の悠悠たるを念い。
独り愴然として涕下る。


台から眺めると、どこまでも悠々と広がる空。大地。海。
絶対的威厳をもって拡充する世界。
それに対する自分の少なさ、小ささ、はかなさ。
そして、天から私をおさえつけるような圧倒的孤独。
広大な世界に思いをはせると、己がいかに空虚な世界に一人取り残されているのか分かる。


私は歴史という空虚の中に一人ポツンと立つ孤独な存在にすぎない。
私は天地という空虚の中に一人ぼんやりとたたずむ孤独な存在にすぎない。
そのように、人の絶対的孤独を夢想すると自然と涙がこぼれてくる、と陳子昂は言いたかったんじゃないだろうか。


その心。
今、人の孤独に涙すその心。
それもまた同時に空虚ではないか、と僕は陳子昂に聞いてみたい。


《20080708の記事》