殺人の狂気に、二郎はおどる

 武田泰淳の短編小説、「審判」の一部分を紹介する。主要登場人物「二郎」は、日中戦争時に兵士として中国に従軍した。その際、とある農村で老夫婦がうずくまっているのを見つける。二郎は、非戦闘員の彼らに銃口を向ける。「もとの私でなくなってみること、それが私を誘」ったという。そして、盲目の老父を銃殺し、「つんぼ」の老婆を置き去りにした。

伍長が立ち去ったあと、この地球上には私と老夫婦の三人だけが取り残されたようなしずけさでした。
五月二十日の午後です。
かすかに靴の下の土が沈み、風がゲートルをまいた足のあたりを吹き抜けたらしい
私は立ち射ちの姿勢をとりました。
老夫の方の頭をねらいました。
二人は声一つたてません。
身動きもしません。
ひきがねの冷たさが指にふれました。

(初出;「批評」一九四七年四月)強調は僕


 引用は、老父を銃殺したことを告白する「二郎」の手紙の部分になる。つまり、二郎自身による罪の「告白」である。ところがどうだろう? 確かに、波線部以外は、自然な一人称の文体となっている。ごく普通に、手紙の読み手に自分の経験した、殺人に至る経緯を語っている。


 しかし、強調部である。ここを読んだとき、僕は思わず腕を組み、くうを仰いでしまった。
 強調部の文末は「らしい」。日本国語大辞典(第二版、2002)には、
「客観的な根拠に基づいた推量を表す。伝聞による事実などが根拠になることもあ」る、とあり、また、「……と判断される様子である」や「……と思われる」の意とある。


 誰でもない、まさに自分自身の行為を語っているのに、どうして二郎は「推量」の助動詞、「……と思われる」を使うのか。
「かすかに靴の下の土が沈み、風がゲートルをまいた足のあたりを吹き抜けた『と思われる』。」


 そして、「かすかに靴の下の土が沈み、風がゲートルをまいた足のあたりを吹き抜けた」という、この奇妙で鋭い身体感覚。殺人という究極の緊張時のはずなのに、こんな奇妙で鋭い身体感覚を思い出すというのは異常だ。


 推量表現とこの奇妙な身体感覚から、僕にはまるで、二郎が殺人行為に半ば酔いしれながら饒舌になっているようにも思える。彼は彼の世界のスポットライトをあびた主人公なのだ。そしてそれと同時に、その世界とその主人公を饒舌に物語る、語り部なのだ。


 二郎はこの後、老父を殺害した罪意識や、自己処罰の意識にさいなまれたと書き、実際に恋人と無下に別れるなど自己処罰らしきものを行う。しかし、この強調部の語りをもって僕は、二郎が殺人の罪と“真に”向き合っているとはとうてい思えないのである*1
 自分の犯した殺人を回想する手紙のまさにその場面に、「らしい」という「推量」の助動詞を使った二郎。そして、奇妙に鋭い身体感覚をもって語った二郎。強調部は、「二郎」の自家撞着した無意識を、鮮烈にえぐり出した一文といえるのではないだろうか。


 この強調部分は興奮するほどに美しい。二郎の殺人という狂気と、殺人を歪に解消するという狂気を、見事に表現していると思うから。そして、動と静を見事に生み出し、殺人の緊張を演出しているから。殺人の狂気に、二郎はおどる。

*1:二郎の罪意識については、先行研究でも指摘されている。本多秋五は「武田泰淳」(同『物語戦後文学史』、新潮社、一九六六年三月)の中で、深い罪意識をもち、自分に厳しい罰を与える二郎を主要登場人物として描く「審判」に対し、「兵士になって中国で戦い、余儀ない事情によってではなく、自分の意志によって中国人を殺した青年の罪業感を書いた、いわばヒューマニズムの作品」と指摘している。しかし、二郎の罪意識を単純に捉えることはできないのではないだろうか。松島芳昭は「『審判』 自家撞着の果てにあるもの」(「解釈学」第五巻、一九九一年六月)の中で、「告白文の中で注意すべき点を前半より掲げると、先ず、鈴子との『婚約の破約』により『今までにない明確な罪の自覚が生まれ』たという言い方である。しかも、『罪の自覚、たえずこびりつく罪の自覚だけが私の救いなのだと思い始めました。』というように、二郎においては『罪の自覚』とは、自分の犯した行為に対する反省から自然に目覚めたものではなく、無理に自覚させているところに問題がある」と指摘している。また、石川真澄は「『審判』 存在感の喪失」(「国文目白」第十九巻、一九八〇年二月)の中で、「彼が求めたのは、裁きが与える解放感ではなく、罪の重さである。罪意識が、殺人者という自覚により、さらに強い存在感を彼に与えるのだ。そして、罪の意識をより強く、より長く持続させるために必要なのが、”裁き”という刺激なのである」と指摘している。松島芳昭や石川真澄が指摘するように、二郎の罪意識は屈折しているといえるだろう。確かに、二郎は過去の無益な殺人を行ったことに苦しみ、厳しい自己処罰をおこなう。しかし、二郎はあくまで、「自分の自覚を失ってしま」わないように、鈴子に罪を告白し、中国に残る決断をするのである。鈴子への配慮も、殺害した中国人に対する贖罪感も薄い。二郎が自己処罰を行うのも、「罪の自覚」だけが自分の「救い」であり「よりどころ」であるからである。二郎の罪意識も、自己処罰も、他人に対して申し訳ないという感情や他人に対する何らかの配慮から生じてきたものではなく、ただ自分が「救い」の感覚を得たいという自己本位な理由から生じてきたものといえる。よって、「審判」をヒューマニズムの作品と捉えるのは難しいだろう。本「文字力だより」は、松島らの主張を補強するものと考える。