タタール人の砂漠

タタール人の砂漠
ブッツァーティ著 脇功訳 原著1940 岩波書店

内容、カバー折口より

辺境の砦でいつ来襲するともわからない敵を待ちつつ、緊張と不安の中で青春を浪費する将校ジョヴァンニ・ドローゴ―。神秘的、幻想的な作風でカフカの再来と称される、現代イタリア文学の鬼才ブッツァーティ(一九〇六‐七二)の代表作。二十世紀幻想文学の古典。

感想

・本小説が描いているものについて、「訳者解説」は「人生そのもの」と指摘している。
「辺境の砦で三十年余を過ごすことになる主人公ドローゴの人生は孤独で単調な日々の積み重なりにしかすぎず、ただむなしく時が流れて行くだけである。そして、そうしたうわべは日常性に埋没しきったような暮らしの中で、ドローゴをはじめ、砦の司令官フィリモーレ大佐も、オルティス大尉も、プロズドチモも、ほかの将兵たちも、いずれ未知のなにかが、運命的な出来事が起こるのではないかという期待を心に秘めながら、ただじっと待ち続ける。そして、彼らのそうした漠然とした期待から生み出されたのが、北の砂漠からの伝説のタタール人の襲来という幻想であり、あるいは、わずかに現実味を帯びたものとして、北の王国の軍隊による攻撃という期待である。彼らはこうした幻想、期待を抱く一方で、結局はなにも起こらないままに終わってしまうのではないかという不安、焦燥感に苛まれながら、神秘的な霧に包まれた、なぞめいた北の砂漠の方を窺い続けて、砦から離れられない。そうした意味では、砦は人々の人生を納めた入れ物であり、タタール人の襲来という幻想は、人々が人生で抱く期待や不安の象徴であると言えよう。」

あてのない期待とそれにともなう不安。鋭い指摘だと思う。

・訳者とは別に私が印象深く思ったのが、不思議と人をとりこにする「砦」だ。本小説の部隊である「砦」は三方を「干からび」た山に囲まれ、その一方は砂漠である。風の流れや砂、光と陰、雲、霧、雪、鳥の鳴き声といった、四季の繰り返しを想起させる描写が多い。それらは悠久の時を刻んでいく。幻想的だ。そうして砦は美しさを感じさせるものである。
しかしそのありさまは、砦における単調で規則的な軍務とあいまって、主人公を「麻痺」p107させる。「ここに囚われてしまって、もう離れることができなくなってしまう」p210のである。

この「砦」は魔物だ。美しくも、乾燥し埃まう舞台。単調な任務。延々と同じことがくり返される日々、太陽の運行、そして季節。劇的な事が起こってほしいという期待の裏には、そんなはずはないという不安が常につきまとう。

魔物に囚われた主人公の人生に救いはあったのだろうか? ふと、こんな問いをたててみた。

本書は、同じことをくり返しているとつまらん人生になるぞ、といった警句の書ではあるまい。確かに、そうした教訓は読み取れる。しかしそうではないのだ。
なぜなら主人公の見る世界が美しいからである。自然のサイクル、光と風の運行は彼と彼の砦を包み、宇宙の一部となる。
彼の人生がいかにあれ、有象無象の一事象に過ぎない。むなしい人生であったことは間違いあるまい。それでも美しい生き様であった。私はそこに主人公ドローゴの人生に対して、救いをみたいのである。