古代中国の文明観 儒家・墨家・道家の論争

おすすめ!
古代中国の文明観 儒家墨家道家の論争
浅野 裕一 2005 岩波

内容、カヴァー折口

古代中国の文明発生時、巨大な都市文明の建設に伴って大規模な自然破壊が行われた。孔子墨子老子等の諸子百家は、この問題についてどう考えたのか。彼らの間でかわされた論争を交え、その文明観を紹介する。自然と文明の関係が切実な問題として問われている今日、そこには環境問題を考える際のヒントが隠されている。

感想

 古代中国の思想界においてはすでに、「自然」と、いわゆる「文明」が意識されていたようだ。文明の発展とは、この「文明」の部分が「自然」の領域を侵しどんどん広がる現象である。
 本来ならそれによって人間は過ごしやすくなり便利になるはずなのだが、行き過ぎた「文明」の拡大は、必然的に「自然」破壊を伴い、現代においてはそれが人類の生存を脅かすまでになっている。現代人の骨身には、「文明」の危険性がしみている。しかし文明が発生しつつあった二千数百年前の中国思想界においてすでに、「文明」に近い概念と「自然」に近い概念があり、かつ「文明」の危険性を主張する思想があったということは本当にすごいと思う。

 拡大する「文明」と破壊される「自然」。これに対し、昔の人々はどう考えたか?
 この問題意識は老荘思想に限っていえば、僕も以前から持っていた。

老子の思想と、人間臭い彼の嘆きについて

 『老子』の主張のエッセンスを、簡単に抽出してみたい。私は地球科学の、「地球全体を一つのシステムとしてとらえる発想」を援用することで、『老子』の主張をより分かりやすく理解することができると考えている。
 地球科学の発想によれば、世界のシステムは「地球圏」、「生物圏」、「人間圈」といったいくつかのまとまりあるシステムに便宜的にわけることができる(松井孝典、2003)。ここでいうシステムとは、太陽光エネルギーを原動力に、各要素が循環することにより、巨視的にみてある程度の恒常性を維持する仕組みである。
 「地球圏」は地球全体の循環システムのことであるが、その中に、生物全体の循環システムをみいだすことができる。これが「生物圏」である。そして、「生物圏」の中に、人間の循環システムをみいだすことができる。これが「人間圏」である。狩猟採取から、農耕牧畜にシフトしたとき、ヒトは、自分たちを中心にした循環システムを造りだし、「生物圏」の中でも独自の存在となった。産業革命を経て、その傾向は増すばかりだ。またヒトは、円滑な相互協力のため、複雑な社会と道徳体系を構築するにいたる。
 『老子』は、精神的な意味でも身体的な意味でも、この「人間圏」のことわりから脱却し、「生物圏」、そして「地球圏」のことわりに従えと説いたのである(もっとも、『老子』には、農耕牧畜を止めろとまで書いているわけではないのだが)。
 「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」(二十五章)
 「人間圏」を際限なく拡大した結果、「地球圏」全体の循環システムに悪影響を及ぼしている今日、『老子』の主張はよく理解できると思う。当時の「老子」は、現在の環境問題まで予期していたわけではないだろうが、人間圏のみを追及することの(精神的・身体的)危険性を、鋭い感覚を持ってとらえていたといえるだろう。
http://d.hatena.ne.jp/skycommu/20101205/1291476792


「自然」が意味するところは、文明によって違う。文化によって違う。時代によって違う。人によって違う。
自然ほど、曖昧な概念はないのではないだろうか。
自然とは何か?
田んぼは自然なのか? 里山は自然なのか? 餌によって集められたツルの集団は自然なのか? 足繁く登山者の集う霊峰は自然なのか? だいたい今の人間の生活は自然なのか? もし自然でないとしたら、いつから自然でないのか? どこから自然でないのか?

自然の基準は個々の、心の内にあるというほかない。いまのところは。

僕が思うのは、この自然の概念を整理するのに、昔の人々の認識が役立つのではないかということだ。
本書のテーマの一つである、昔の人々は文明をどう考えるか、ということは、畢竟、自然をどう考えるか、ということに他ならない。文明と自然は裏表の関係だからだ。文明の範囲が定まれば、それ以外が自然の範囲である。

そして、これはまだ試論だけれど、文明の範囲と自然の範囲を定めようとすることは、人間とは何かを考える上で極めて重要なことではないだろうか。
文明こそ、冷酷な自然の中で人間が築いてきた砦だ。しかし、その砦の範囲がはっきりしないのである。人によって変わってくるのである。
実にこれは不思議な話のはずである。なぜなら、己の範囲を定めるということは生命の最需要かつ最優先、最基本的な問題だからだ。生物の免疫システムは、自分に属するものと、自分に属さない異物を明確に選り分け、後者を排除する。免疫システムが正常に働かないと、生物はすぐに個を保てなくなり死んでしまう。
自意識もそうだ。自意識とは、書いて字のごとく、自分の範囲をこっからここまでと定め、そしてそれを自分だと思う意識に他ならない。そして、自分が昨日から今日に引き継がれ、また今日から明日に引き継がれるだろうと思う意識に他ならない。
以上のように、生命にとって自分の範囲を定めるのは極めて重要な事柄なのである。しかし、冷酷な自然の中で人間が築いてきた砦たる「文明」という概念には、そしてその裏である「自然」という概念には、はっきりとした範囲がない。
実に不思議な話だが、おそらくここ、−−つまり〈「自然」と「文明」の範囲がはっきりしないこと〉と、〈それでもなんとか定めた「自然」と「文明」の範囲〉−−に、人間の本質があるような気がするのである。




 本書は専門家たる面目躍如で、文献の中から文明の発生を読み取り、文明の勃興とそれに伴う自然に破壊に対し、儒教墨子道家がどのように考えたのかを、文献に即して論じている。原文には、書き下し文だけでなく現代語訳もついていて、早読みしやすくて良い。各章ごとに、「問」と「その解」が明確に示されている点も好印象。

 「文明に対する態度」、「自然に対する態度」といった軸を作って分析していて、リサーチクエスチョンに答えを出すために、各思想が良く整理されている。
 儒家の合理的精神は、その後の中国発展の礎になったのではないか。いっぽう、その自然に対する無関心は、科学が発展しなかった理由なのかもしれない。
 道家の文明に対する批判的まなざしは、近代の悪い面を超えて、次の世界にいくための参考になると思う。

メモ

「圧倒的な自然の驚異の中で、弱小な人類がいかに生き延びるか。これこそが太古の時代の環境問題であった。この太古の環境問題を解決すべく、文明を創出した指導者こそ、偉大な聖人であり、王だったのである。」p15

(文明とは、人間がより豊かに、より安全に生活するための、富の生産と消費のシステム。
これに対し文化とは、富の生産や消費に際して、各人間集団が示す癖。
文化と文明はセットで入ってくる。
過去、各地域に様々な文明が形成され、繁栄と衰亡を繰り返すが、現在地球上に存在するのは、十八世紀後半の産業革命以降、西ヨーロッパで築かれた、いわゆる西欧近代文明ただ一つ。)p185

( 儒家は、社会的身分の上下と、富の消費量は正比例させるべきだ、と考えた。統治者が贅沢してこそ身分を明確に表示し、礼的秩序は保たれると考えたのである。そして、自然界の資源は楽観的に、充分に足りていると主張した。儒家は、自然を改造し文明をもたらした王を理想の存在とし、文明の高度な発展を肯定し是認したのである。自然界への関心は薄い。

 一方、墨家は、人間が自然界から取り出せる富の総量は悲観的に、絶対的に不足していると考えた。よって、実用性にのみ徹した富の節約と、勤勉な労働による富の増産が必要だと主張した。それによって全人類の利益が増えて好ましいと考えた。限りある自然を効率よく利用するという文脈で墨家もまた、文明の発展と維持を是認したのである。自然界への関心は薄い。

 道家は、宇宙生成の話から始めるなど、文明を相対化し批判的にみている。欲望の赴くままに文明を高度化させる行為に警告を発し、物質的繁栄よりも精神的充足の側を選ぶ方向に価値観を転換すべきだと説いた。文明が人間に与える悪影響を指摘。自然の在り方に従えと説いているため、自然界への関心は高い。)p190