ふしぎなキリスト教

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ふしぎなキリスト教
橋爪 大三郎,大澤 真幸 2011 講談社

内容(「BOOK」データベースより)

日本人の神様とGODは何が違うか?起源からイエスの謎、近代社会への影響まですべての疑問に答える最強の入門書。挑発的な質問と明快な答え、日本を代表する二人の社会学者が徹底対論。

メモ

○(多神教において神は、偉いかもしれないが人間に近い存在。
一方、一神教においてGodは全知全能の絶対的な存在。人間はGodにつくられたモノみたいなもので、Godが支配するGodの所有物に過ぎない。)p20

○(一神教にとって社会におけるさまざまな理不尽は、Godからの試練と考える。
祈りは神との対話。)

○(ユダヤ教の律法はユダヤ民族の生活のルールを一つ残らず列挙したもの。衣食住、生活暦、刑法民法商法家族法……。これらをGodの命令とし守っていくことで、さんざん侵略されてきたユダヤ民族が何年たってもユダヤ民族のままでいられる、という考えで律法はできている。)p43

○「一神教は、たった一人しかいない神(God)を規準(ものさし)にして、その神の視点から、この世界を視るということなんです。たった一人しかいない神を、人間の視点で見上げるだけじゃダメ。それだと一神教の半分にしかならない。残りの半分は、神から視たらどう視えるかを考えて、それを自分の視点にすることなんです。
 多神教は、神から視るなんてことはどうでもいい。あくまでも人間中心なんです。人間中心か、神中心か。これが、一神教かどうかの決定的な分かれ目」p55

○(一神教は人格をもった全知全能のGodが世界の理の背後だと考える。
一方、仏教は因果の法則、自然の法則があって、それに従って世界が動いていると考える。この法則と調和するのが理想。
儒教は政治によって能力をもった者がリーダーシップをとり、自然をコントロールすべきものと考える。儒教の古典は政治的リーダーを訓練するシステム。)p62

○(一神教と仏教と儒教には共通点がある。それは手近で信仰していた神々に頼らないという点。その神々を否定している点。
どちらも、呪術や多神教の自然崇拝、特殊な習俗を否定し、戦争によって社会や自然が破壊されたとしても、人間が人間らしく連帯していくため、民族・部族を超えて妥当性をもつような普遍宗教・世界宗教。)p86、p98

○(ユダヤ教は、絶対的な神を想定することで神の前において人は平等になることができる。王権のコントロールも)p105
スカイコミュ注:似たような指摘をイスラム教でも見た。
(『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア』:
イスラム教ほど、イスラム教国の支配者を脅かすものはない。なぜなら反対勢力にアッラーという錦を掲げられると、それを理屈で否定することはできないから。
イスラム教国の近現代史イスラム教弾圧の歴史でもある。)

○(一神教にとっての奇蹟とは?
世界はGodのつくった自然法則で動いている。誰もそれを動かすことはできない。しかし、例えば預言者預言者であることを証明する必要があれば、Godはその自然法則を止めることができる。これが奇蹟。世界が自然法則に従って合理的に動いていると考えるからこそ奇蹟の観念が成り立つ。)p117

○「科学はもともと、神の計画を明らかにしようと自然の解明に取り組んだ結果、生まれたもの。」p122

○(福音書はイエス預言者、救世主と考えた。
一方、パウロはイエスを「神の子」とした。この解釈で聖書を読んでいくのがキリスト教。)p155

○(イスラムユダヤといった他の一神教と比べキリスト教は、そもそも福音書の段階で内容が不一致。だから多様な見解が出てくる。ただしいろいろな意見に寛容なわけではなく、多数決で見解を統一しそれが正当として定める。)p250

○(カトリック
→宗教的な権威と世俗の政治権力が明確に二元化。仲が悪いことも。)p261

○(キリスト教が近代化において主導権を握ったわけ。
ユダヤ法やイスラム法と違って聖典にはっきり神の法が書いておらず、自由に法をつくれる。そしてどうすればGodの意志にそうことになるのか創意工夫できる。p275、p314
プロテスタントは自分が勤勉に働くことが、神の恩寵の表れであると考えた。p302
世界はGodがつくったもの。ただもうそこにはGodはいない。そのなかでは人間が一番偉く、世界・自然を管理監督する権限があると考えた。p312
人間の理性は神のつくったそのまま。だから理性を重視。理性で世界を解説することも信仰に生きる道。p281)

感想

○おもしろかったし、キリスト教の大枠をつかむのに役だった。キリストの魅力がわかった気がする。全知全能のゴッドをいただく一神教は、やり方次第では原理的に(現実にはそう解釈されていないのだろうが)多神教すら内包可能だと思った。全知全能の何かにすべてをあずければ、原理的にどんな世界でも理屈をつくれるからだ。
その万能さが、一神教の魅力の一つなんだと思う。

○神とゴッドの違い。それぞれが背負っているものの違う、というのは特に勉強になったこと。

○ネット上に壮大な量の反論があって、本当にキリスト教を学びたい人は参照した方がいいかも。
ただ、その反論をざっとながめた感じだと、なんかどうでもいい、瑣末な点を指摘する反論ばかりが目についた。

これら本書の反論について、ネット上に鋭い指摘があったので引用しよう。僕も同意見である。
「人間がやっている事としてのキリスト教(信仰を持たない人向けキリスト教案内)」http://www.amazon.co.jp/review/R3F3KJTQOKM9NA/ref=cm_cr_rdp_perm

指摘された誤りの数は膨大でしかも細かいものが多い。なぜこんなに批判されるのだろうか?もし、第二版があって指摘された誤りが修正されたら、批判者はこの本を受け入れるだろうか?多分、そうはならないだろう。いろいろ批判される原因の根本は「キリスト教は人間がやっている事」という視点でこの本が書かれているからではないか?宗教関係の本の批判の根本にあるのは信仰だったりするので微妙である。

○著者二人は本書で、宗教と、宗教と社会の関係という不可解で複雑なものを扱っているにもかかわらず、妙に断定口調が多くて気になった。断定するには本書の論拠は雑すぎる。
ネット上に同じ指摘をしている人がいた。

現代社会の調味料としてのキリスト教http://www.amazon.co.jp/review/R13YS5N6A1QK1J/ref=cm_cr_pr_perm?ie=UTF8&ASIN=4062881004&linkCode=&nodeID=&tag=

ものすごく強い批判にさらされている事実も理解できる。おそらくキリスト教の信者からの反発は大きいだろう。
それは結局、キリスト教を徹底的に外部から語っていることに起因すると思う。キリスト教をすべて知っているかのように、
他者があれこれ語る。それはキリスト教の内部にいる人間にとっては、たまらない苦痛となるだろう。
信仰の拠り所として穴が開くほど聖書を読み込んでいる内部の人間には、「間違いだらけ」と映ってもおかしくない。
またそれを、橋爪さんによる解釈のあまりの一刀両断ぶりが助長しているように思うのである。

○宗派間抗争や宗教間戦争、アフリカやアメリカ大陸先住民に対する壮大壮大壮大な残虐な行為の数々。なぜキリシタンは他宗教や他民族に苛烈な牙をむいてきたのか? キリスト教徒の多さや高い科学技術がハメをはずさせたのか? そこら辺も切り込んで欲しかったな。

社会学者の二人がマジメに対談しているわけだが、その対象が旧約聖書新約聖書、そして一神教

このような神話というそもそも荒唐無稽なもの(仏教や神道だってそうだが)を、二人の学者がなんとかその論理がつながるように〈こじつけ〉を頑張っていて、それがマジメにやってるぶん、なんだかおもしろかった。ある種、バカバカしかった。でもこれが本気で宗教や神話と向き合う姿勢なのだろうか?

○西洋が近代化を生み出したのはキリスト教の影響である、という認識のもと議論が進む。
「近代化とは、西洋から、キリスト教に由来するさまざまなアイデアや制度や物の考え方が出てきて、それを、西洋の外部にいた者たちが受け入れてきた過程」p4

だが、本当にキリスト教が近代化の手助けになったのか、論証が甘いのではないか?

確かに本書ではキリスト教が近代化に役だった理由をいくつか述べているが、しかし他の宗教にだって同じような側面はある。また他の宗教だって科学や勤勉さにつながりそうな教えや要素をいくらも含んでいる。実際、蒸気エネルギーの実用化と高度な機械化を成したのはキリスト教圏かもしれないが、イスラム圏や仏教圏、儒教圏キリスト教圏よりもはるかに高度な文明をもち得ていたときだってあった。
蒸気エネルギーの実用化と高度な機械化という産業革命がある閾を超えていたため世界規模で絶大な影響を及ぼし、たがために産業革命のみが突出した扱いを受けているのかもしれない。他の文明圏だって、その閾こそ自ら超えなかったかもしれないが、偉大な科学的功績を残しているんじゃなかろうか?

話を元に戻すと、本書はキリスト教と近代化の関係について他の文明圏の事例を参照し比較しながら証明しているとはいえず、こじつけごっこというか言葉遊びをしているんじゃないか、とすら思う部分があった。難しいと思うんだけどね。ただそこはウェーバーのいってることを鵜呑みにするんじゃなくてきちんと論証して欲しかった。

もしくは、なぜ西欧が近代化を成したかという問題を、キリスト教ではなく他の要因を考えることも可能だろう。実際に近代化の中心的価値観である民主主義や資本主義は、キリスト教圏でない日本にも受け入れられているのだから(むしろ政教分離のように、西欧よりも過剰な部分もあるくらい)。

神道について納得できないことが書いてあった。
例えば、神道は(神像を拝むと、神に支配されることになり。それが嫌だったので神の像をつくるらなかった)p331とか。

驚天動地!! 古社に行ったこと無いんだろうかねえ? 神道は、結局は何らかの像を拝むことは少なくとも、聖なる空間を拝むことで、各種安全や豊穣を祈っているのだ。私達は自然という名の神に支配され左右されている。人智を超えたものに支配されているというのはアニミズム的要素の強い神道でも当然基板にある考えで、著者の言っていることが意味不明である。

そもそも神像って、仏教の影響かも知れないが、中世あたりはたくさん作られてるしね。
著者の主張はこの点からも破綻している。