老子の思想と、人間臭い彼の嘆きについて

衆人は熙熙(きき)として、大牢(たいろう)を享(う)くるが如く、春の台(うてな)に登るが如し。我れ独り泊としてそれ未だ兆(きざ)さず、嬰児(えいじ)の未だわらわざるが如し。るいるいとして帰する所無きがごとし。衆人は皆余り有るに、我れ独り遣(うしな)えるがごとし。我れは愚人の心なるかな、沌沌たり。俗人は昭昭たるも、我れ独り昏昏たり。俗人は察察たるも、我れ独り悶悶たり。澹(たん)としてそれ海のごとく、飂(りゅう)として止まる無きがごとし。衆人は皆以(もち)うる有りて、我れ独り頑(かたくな)にして鄙(ひ)なり。我れ独り人に異なり、而して母に食(やしな)わるるを貴(たっと)ぶ。


老子、二十章

老子』の主張を、地球科学の知見を援用してとらえる

 中国古典の思想書老子』は、「無為自然」、「小国寡民」で有名だ。その著者は一般に、「老子」と呼ばれる。
 『老子』の主張のエッセンスを、簡単に抽出してみたい。私は地球科学の、「地球全体を一つのシステムとしてとらえる発想」を援用することで、『老子』の主張をより分かりやすく理解することができると考えている。
 地球科学の発想によれば、世界のシステムは「地球圏」、「生物圏」、「人間圈」といったいくつかのまとまりあるシステムに便宜的にわけることができる(松井孝典、2003)。ここでいうシステムとは、太陽光エネルギーを原動力に、各要素が循環することにより、巨視的にみてある程度の恒常性を維持する仕組みである。
 「地球圏」は地球全体の循環システムのことであるが、その中に、生物全体の循環システムをみいだすことができる。これが「生物圏」である。そして、「生物圏」の中に、人間の循環システムをみいだすことができる。これが「人間圏」である。狩猟採取から、農耕牧畜にシフトしたとき、ヒトは、自分たちを中心にした循環システムを造りだし、「生物圏」の中でも独自の存在となった。産業革命を経て、その傾向は増すばかりだ。またヒトは、円滑な相互協力のため、複雑な社会と道徳体系を構築するにいたる。
 『老子』は、精神的な意味でも身体的な意味でも、この「人間圏」のことわりから脱却し、「生物圏」、そして「地球圏」のことわりに従えと説いたのである(もっとも、『老子』には、農耕牧畜を止めろとまで書いているわけではないのだが)。
 「人は地に法(のっと)り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」(二十五章)


 「人間圏」を際限なく拡大した結果、「地球圏」全体の循環システムに悪影響を及ぼしている今日、『老子』の主張はよく理解できると思う。当時の「老子」は、現在の環境問題まで予期していたわけではないだろうが、人間圏のみを追及することの(精神的・身体的)危険性を、鋭い感覚を持ってとらえていたといえるだろう。

〈孤高を説く老子〉と〈その嘆き〉

 書物『老子』は、「こうしなさい、ああしなさい」といったように、人の在り方を説く文章で占められている。それ以外の言説はほぼない。というのも、道に従い、地球圏の循環システムに帰ることを説くことが、ほとんどすべての、『老子』の目的だからだ。思想書思想書たる所以である。
 ただ例外的に,老子が、世間が道に従っていないことを嘆き独白した部分がある。それが上に引用したところだ。


 人間圏のシステムを見抜いた老子。その限界を冷ややかに見透かした老子。自然の理に従えと説いた老子。孤高の生を提唱した老子


 しかしこのうえなく鋭い眼で世界を見定めた天才も、実に人間くさい嘆きを吐露している
 己の超然としたさまをたたえ、その一方で俗にまみれる世間の人々を嘆く。とてもこれでは老子のいうような孤高の精神ではない。世間への非難と、素晴らしい自己への承認欲求に満ちた、まさに俗っぽい嘆きだ。孤高の天才も、俗っぽく嘆かざるを得なかったのだ。
 もっとも、これまで言及されてこなかったこの俗っぽくて人間くさい詩にこそ、『老子』のもう一つの本質を見いだすことができるのではないだろうか。ここにこそ、老子その人の確固たる一面が宿っているのではないだろうか。
 だから僕は、思想書老子』のこの部分が、大好きなのである。