ひぐらしのなく頃に 第三話 祟殺し編

ひぐらしのなく頃に 第三話 祟殺し編
竜騎士07 上巻年2007年12月 下巻2008年1月


【内容、出版社ウェブサイトより】
上巻
昭和58年。平和な雛見沢村で、毎日の“部活(ゲーム)”に興じる前原圭一と仲間たち。だが、何も知らず無邪気に楽しんでいたのは、彼ひとりだけだった。“トラップマスター”北条沙都子の日常に暗い影を落とす存在――両親の死、兄・悟史の失踪、名前だけの“保護者”、そして……。彼女の未来を悲劇にしないために、圭一は抗う!!

かつてない恐怖、そして来るべき未来の物語(ストーリーテリング)の可能性を斬新に詰め込み、あらゆるメディアを席捲したゼロ年代の記念碑的一大ムーブメント、『ひぐらしのなく頃に』の最終形態は、今ここに「小説」として結晶する――。

これぞ小説。『ひぐらしのなく頃に』の到達点にして新たな原点!


下巻
昭和58年、雛見沢村。“トラップマスター”北条沙都子を虐待から救うため、奔走する前原圭一。しかし児童福祉司への相談も、何ら変化をもたらさなかった――。出口の見えない状況と、雛見沢に古くから伝わる“オヤシロさまの祟り”が結びついた時、圭一は“ある決断”を下す。そして事態は、さらなる最凶最悪の悲劇へと向かう……!!

かつてない恐怖、そして来るべき未来の物語(ストーリーテリング)の可能性を斬新に詰め込み、あらゆるメディアを席捲したゼロ年代の記念碑的一大ムーブメント、『ひぐらしのなく頃に』の最終形態は、今ここに「小説」として結晶する――。

これぞ小説。『ひぐらしのなく頃に』の到達点にして新たな原点!


【雑感、メモ】
 話題となった同人ゲームの小説版。すでに売却済みだが、読書メモを発掘したのでざっくばらんに書き起こしてみる。少し古いけれど。感想や、同人ゲームとの違いなど。 なお、この同人ゲームは超おすすめなので、是非、購入してプレイしてみてほしい。メロディアスな音楽もよい。


 ○原作は、立ち絵のついたサウンドノベル。誰の発話かは、その時表示される立ち絵ではっきり分かる。小説版ひぐらしは、原作の文字の部分をほとんど忠実に写しているようだが、立ち絵がないため誰の発話か、一瞬考えてしまう。確かに、各登場人物の話し口は、それぞれ非常に個性的なので、判断はできる。しかしそれでもやはり、誰の発話か、一瞬考えなければならないので、それが本を読むペースを乱す。特に本書は、会話の割合が大きいのでつらい。サウンドノベルを小説に移植するとき、誰の発話か「すぐ」分かるように、何らかの手立てをうつべきだっただろう。


 ○本書で描かれるのは児童虐待。圭一と沙都子の深い交流。沙都子の過去。人間の排除。人間の狂気。など。
 特に、圭一と沙都子に、どれだけ感情移入できるかがカギで、それはよく意をつくされているし、成功していると思う。


 ○原作ひぐらしは、基本全部で八つのストーリーからできている。本書はその三つ目。


 ○祟り殺し編の主人公は、前原圭一。「ひぐらしのなく頃に」には、多くの登場人物が登場するし、それぞれが重要な役割を担うが、語り手になるという点で、前原圭一は著しく特殊。他に語り手になる人物は、ちょっと想い出してみて、古手梨花鷹野三四くらいなはず。
 物語全体をみて、「ひぐらしのなく頃に」には、二人の語り手がいるといえる。一人は古手梨花。もう一人が、前原圭一前原圭一が、読者と視点を同じくするような狂言回し的な人物になる。前原圭一は、物語を見、聞き、話し、感じ、考え、そしてそれを読者に語る立場だということ。読者は基本的に彼の目を通してひぐらしのなく頃にという世界を感じる。
 一方、古手梨花は、物語を俯瞰的に捉え、まるで神のように客観的に世界の真相(物語の種明かし)を叙述する語り手である。


 ○「祟殺し編」は前原圭一の一人称小説であるため、圭一の内話文(心に思った言葉)(心中思惟の言葉)のあらし。語り手に対する感情移入を誘うのに効果的。


 ○文の構成もうまいし、なにより比喩がなかなかうまい。


 ○喜劇→悲劇
 この転換が、ひぐらしシリーズのキモ。
 喜劇があるから、喜劇が成功しているから、悲劇が成立する、悲劇がきわだつ。


 ○圭一の語りは、突然、客観視点になるときがある。不自然。


 ○重要なキャラも小出し。うまい。小出しにされたキャラが、いかに重要な役目を負っていたかは、別な物語で明らかになる。


 ○語りは基本的に、回想文。つまり、現在から過去を思い出しながら語っているわけだ。
例、「沙都子の叔父など、虫けらのように殺してやる。そう思っていた俺が、昆虫の……」
 「そう思っていた」という語りから、ある現在から、過去の自分を客観的に分析していることを示している。しかし、圭一は最終的に死ぬ。
 この「現在」がいつなのかはっきりしない。というよりも、これは一つの破綻だろう。


 ○後でアニメ版を見たけれど、アニメは圭一が沙都子の叔父を殺すだけの説得力がない。怒りの気持ちの醸成がぜんぜん足りない。原作や小説版は、内容が充実しているので、これに成功している。


 ○小説だと沙都子が虐待されていると知ってから、急に圭一の言動がおかしくなる。物語を案内するはずの語り手に、狂気が宿る。しかし、アニメではそれが分からず、物足りない。


 ○「ひぐらしのなく頃に」というタイトルはこの物語の時間(6月)と空間(雛見沢)そのものを意味していると思う。まさしく、ひぐらしのなく場所で、ひぐらしのなく時間に物語はある。象徴的な一部分を引用したい。


「 カナカナと合唱するうるさいひぐらしたち。……あぁ、……俺の知っている雛見沢のひぐらしもこういう風に鳴いただろうか…?どこか違う。ここのひぐらしは鳴いてるんじゃない。…泣いてるんだ。」


「 何かの拍子に、……裏側の世界に迷いこみ…元の陽の当たる世界に帰ることもかなわなくなった者たちの、…悲痛な叫び。」


「 俺は……こんな世界に来たくて…あれだけのことをしたんじゃない…!!」下巻p231