ナイン・ストーリーズ

ナイン・ストーリーズ
J・D・サリンジャー 野崎孝訳 S49 新潮社


超おすすめ!
【背表紙より】
自己のはかない理想と暴虐苛酷な現実との間にはさまれて、抜き差しならなくなった人々の自我の内奥を照射し、それに真っ向から切り込んだ自選作品集。消化し切れぬ自意識の過剰を感覚的に捉えた、代表的短篇『バナナフッシュにうってつけの日』、ほかに『笑い男』『エズミに捧ぐ』『テディ』など、鋭敏で繊細な感受性と綿密な計算とが造り上げた"九つの物語"。


【雑感】
サリンジャーの作品を読むのは、「ライ麦畑でつかまえて」にひきつづき2作目。本書は、サリンジャー自身が選んだ、9つの短編集。


サリンジャーの小説は本当にすばらしい。日本語訳もいいんだろう。登場人物のしぐさや視線、手足の動き、行動、場の雰囲気、会話のすれ違いを丹念に繊細に描くことによって、読者に登場人物たちの気持ちが良く伝わってくるようになっている。重要なのは、その気持ちが語り手あるいは登場人物によって言語化されることはないということ。そして、登場人物の気持ちが直接言語化できるような、過剰な風景描写、比喩表現を抑えているということだ。


言語化というのは、ある種の物事や現象、感情を、ある社会で認められた共通の、言語という記号によって説明する行為だ。通常、言語化という過程を経て個人の体験や感情は他人と、そして社会と共有される。そういう意味では言語化というのは社会生活を営む以上、必須の行為といえるだろう。現に私たちは、意識的にも無意識的にも、日々、言語化して生きているわけだ。


しかし、言語化する前の生の感情が、ストレートに言語化できるわけではない。例えば、恋人とわかれたときの感情を考えよう。2人の体験によりその感情は多様で豊かな意味をはらむ。しかし、恋人と別れたときの感情を「かなしい」と言語化したとき、元の感情にあったはずの多様で豊かな意味は、他人に伝わらないばかりか、自分の中でも、言語化された「かなしい」に合うように、そぎ落とされてゆくだろう。


それは別れた時の感情を、「かなしい」ではなく、「せいせいした」や「さびしい」や「うらめしい」と言語化した場合でも同じだ。


かくして言語化という行為は、私たちの生の思いを、社会的に認められた小さな枠にカットして押さえ込むんでしまう。多様で、複雑で、広がりが大きくて、豊かで、捉えどころがない個人の思い。それを、画一的で、単純で、分かりやすくて、小ぎれいで、淡泊で、はっきりとしている集団に認知された感情に閉じこめてしまうのだ。


この短編集の語り手あるいは登場人物は、感情を言語化しない。あるいは言語化できないともいえるのかもしれない。そういう言語化しがたい微妙な感情が、サリンジャーの文章からよく伝わってくる。繊細な記述によって、登場人物たちの、生の、豊かで捉えどころのない感情が、直接言語化するという過程を通すことなしに、私たちの胸にしみてくる。もちろん、読み手にしみたその感情は、生の感情として直接言語化できないものだ。


そういう感じを味わうということは何ともいえず、気持ちいい。心と心が、言葉によって強固だけれど狭くて固い橋でつながれた感じではなくて、心と心が、ぼんやりとだけれど直接重なった感じ。そういう感じを味わえることが、サリンジャーの小説のすばらしいところだとおもう。


本短編集の中でも、特におもしろかった作品。
「バナナフィッシュにうってつけの日
「対エスキモー戦争の前夜」
笑い男
「小舟のほとりで」
「エズミに捧ぐ(愛と汚辱のうちに)」


「小舟のほとりで」などはとても美しい作品だった。子供の純粋さや母の子に対する愛情が伝わってきて・・・。おっと。もうこれ以上、言語化するのはよそう。語り手が言語化しないこれらの感情を、僕がくまなく言語化するには才能がないし、またそもそも不可能だし、それよりなにより本小説においてはとても野暮なことだから。


《20080728の記事》