中国思想を考える(未来を開く伝統)

中国思想を考える(未来を開く伝統)
金谷治 1993 中央公論社


【カヴァー折口より】
中国人はものごとを現実的に見、考える民族である。三千年の思想の歴史を通じて培われたかれらの考え方は、中国人に特有な思考形式として今日に伝わる。それは老荘の現実関心や儒仏道教の現実尊重の思考に根ざす現実合理主義であり、また両面思考、中庸、死生一如、天人合一などの思想である。本書は中国思想の特色となるテーマを取り上げ、平易に説明し、現代の立場から吟味を加え、現代に生き未来を開く積極的な意味をさぐる。


【雑感】
本書は、中国思想とその思想史を総括し、現代において新しい積極的な意味を持つことができるのか問うことを目指したという。よって本書は、「中国思想のエッセンスは何か」+「それを現代にどう生かせるか」という二つの視線がある。


結構おもしろかった。


第3章をのぞき、ちゃんと根拠となる中国古典を引いて、中国思想の特徴を説明しているのがいい。そういう基本をふまえているかいないかで本に対する信頼感が全然変わる。


各章の結びは、「中国思想(といってもそれは本書においてとどのつまりそれは儒教老荘思想なのだが)は決して古くさい終わった思想なわけではない。中国思想の特徴は○○○○で、近代文明である現在にも○○○○という理由から運用できるよ」といったかたちになっている。
しかし、ここらへんはじゃかんこじつけくさいというか、都合良く解釈している感が否めない。


儒学老荘思想は○○(例えば「死」)に関しては一見すると違う考え方をしているけれど、大きな視点で見れば近い考えをもっているよ」といった論法も多い。
ここらへんも都合良く解釈している感がある。


ある一つの文明の思想的特徴を、その文明にある様々な思想を元に抽出するのはおもしろい。
また、高度工業文明。高度情報化文明。資本主義。民主主義。金融資本主義。近代はいろいろな表現をされるけれど、その近代に対し、歴史的に積極的な意味を持ち得なかった思想は、ここにきて逆にどう生かすことができるのか、と考えることもおもしろい。
しかし、それを前提としすぎるとやはり無理が生じるだろう。ある結論(「老荘思想儒教はどこかで根本は同じはずだ」+「中国思想は現在にも役立つはずだ」)をもって、それに合うよう無理矢理解釈するというありがちなパターンに、本書もはまっている点がただ一つ残念だった。基本がしっかりした本であるだけに。


【メモ】
孔子は、死後の世界あるいは死の問題に触れようとしなかった。そういうものは、そっとしておくという姿勢だった。神秘的なこと、理性で判断できないことはできるだけ避けた。現実主義、合理主義のあらわれ。


儒教は、人間は現実をいかに生きるかということに最大の関心を払っている。


○自然に対する孔子の関心はきわめて乏しい。それだけ、現実の人間に対する関心が強い。p34


儒教にはたくましい人間肯定の精神がある。p37


○「仏教は中国に入ってその宗教性を高めて純化するよりは、むしろ現実化世俗化の方向で新しい性格を持った」p48


○中国では歴史が大変重んじられている。西洋やインドもそれにはとても及ばない。中国では客観的な事実を時代の前後に従って記録した。P51


諸子百家の書物には「抽象的な議論を好まず、具体的現実的にものごとを考えようとする性向」がある。p56


○ジョセフ・ニーダムは自然科学の発達には合理主義は時に妨害者となる。神秘主義や非合理主義の方が科学の発達を助けることになると指摘。P83  老荘思想における不老不死を実現するための呪術の中から科学的な技術の萌芽が見られるようになる。しかし、儒教の、分からないものは分からないものとしてその詮索をしないという合理主義は、科学技術の発展を妨げた面がある。p83


→確か山本義隆も『磁力と重力の発見』で同じような指摘をしていたような気がする。


○中庸は、「右」、「左」と、対立するものを区別してそのおおよそ中程を選ぶ、そして右でもあり左でもあるというように違った両端を中央に接収して、曖昧な融通性をもったもので、そこに調和ができるという概念。P151


→中国文学の先生が儒教の中庸について印象的なことを言っていた。すなわち、「中庸は儒教の特徴的思想だが、AかB、どっちかではなく真ん中ぐらいが良いのだという、いいかげんなw珍しい思想。あまりこういうことを主張する思想はない。でも真じゃない?」


○「死の問題を生の問題に包括して、生きている間の人生問題だけを追及するのが、儒家でありました。荘子はそれと違って、生死を一連のものとして平等に取り上げ、生死の変化にとらわれないことを理想としたのでした。生死をつらぬく根源を見つめて、そこに帰入することを目ざしたのです。儒家の立場が現実的道義的であるのに対して、より宗教的哲学的だと言えるでしょう。ただ、そうした違いにもかかわらず、人間存在にとっての真の生き方、死を恐れることから解放された安心立命の生き方が求められているという点は、どちらもひとしいのです。」p179


《20080527の記事》