【「本物」を追究する人】と【ノンポリシーな人】

最近、とてもお世話になっていたバイト先のM先輩がバイトをやめた。


僕や他のバイトに比べ、地図作りやはんこ押しがきれいで、丁寧な仕事が手早くできる先輩だった。
刺繍の職人になりたいという。きっと、性格的に合っているに違いない。


いろいろな遊び方を教えてくれた先輩だった。僕が今まで知らなかったし興味ももたなかった世界を見せてくれた。超簡単にいうとリア充の世界。一緒に、職員の誕生会をひらき、バイクレースを見に行き、カラオケに行き、合コンに行き、ボーリングや卓球をしに行き、軽いナンパをし、明け方まで飲み、ドライブをして夜景を見に行き、外人のパーティに行った。


僕がそのバイトを仕始めてから二年間、ずっと僕の先輩であって、外回りの仕事をずっと教えてくれたのもその先輩だった。
外回りに行く時、組んだメンバーで圧倒的に多いのもそのM先輩とだ。
非常に感謝している。
急に辞めると聞いたので、さすがにその日は動揺した。


その先輩にとって最後のバイトの日にいろいろ話をしたんだけど、ふっとしたことから「skycommuってノンポリだよね」っていう話になった。ノンポリとはノンポリシーのことらしい。


確かに最近の僕は、本を読んでも人の話を聞いても、疑いばかりがもたげてきて、ほとんど何も信じることができない。


新聞を読んでは情報の出所に疑問がわくし、本を読んではデータの取り方・根拠の薄弱さに疑問がわく。人の話を聞いては客観性に疑問を持つし、カメラの性能をみてはあまり書かれていない弱点ばかりを探そうとする。
というわけで、確かに最近の私はノンポリシーだ。とてもとてもポリシーを持つほどの勇気がない。


ものを言うなら完璧なことを言いたいがために、最近は何も感じなくなっている考えなくなっている言わなくなっている。



先輩にもポリシーを聞いてみた。
先輩が答えるには、M先輩のポリシーは「本物を求めること」らしい。


この「本物」というのがくせ者だろう。実際に先輩もよく分からない部分もあると言っていた。しかし、例えば小説だとかならある程度「本物」の条件があるという。それは、長年読み継がれているということらしい。長年読み継がれている小説は、人の本質を描いているのではないかということだ。そういう基準ではセカチューは人の本質を描いてなく、源氏物語は人の本質を描いていることになる。


その時私は疑問を呈した。長年読み継がれているからといって、それイコール人の本質を描いているといえないのではないか?、と。長く読み継がれるということは、大衆に愛されるか、あるいは一部の特権的な地位や感性や地頭の良さを身につけた人々が強く押しているということだろう。もちろん、その両方ということもある。


どっちにしろ、そいうので人の本質の有無がはっきりするとは思えない。しかし、それは断言できないということであって、よく考えると「長く読み継がれる」と「人の本質を描いている」というのはかなり相関するような気がする。もう少し検討してみる余地があるだろう。


小説における「本物」の説明で、少しは先輩のいう「本物」の意味が分かったように思った。それは「人の本質をついている」ということ。他のものに広げれば、強いこだわりや理念、特性、希少性、天然性、懐古趣味などがみられるとかそんなところになるだろうか。


自分で「オレの持ってるものって本物だろうか?」と考えてみるのも意外と楽しい。
確実に、モノを愛着をもって選択するようになるだろう。
今まで、自分がいかにこだわりなくものを買っていたかということもはっきり分かる。
僕の持ち物で、僕がはっきり「これは本物だ」と思えるものは、
時計(アストロデア)、
手帳(トラベラーズノート)、
財布(herz)、
本、
CD(平沢進)、
マンガ、
カメラ(K10D
くらいのものだろうか。後は値段優先で買っていることが多い。やはり「本物」だと思えるものは、それなりの値段がした。けれどもそれらを楽しく使わせてもらっている。


「本物」の定義は人それぞれ。モノそれぞれ。
あんまり考えすぎるとめんどくさい。値段もたいてい高い。
しかし、自分の五感や第六感、理性を研ぎ澄ませて、自分の周りにあるモノを選んでいくというのもそれ自体がまた楽しいことだろう。


もっと意識的に「これって本物かな?」と考えながら身の回りにあるものを選択していきたいと思った。


心ときめくものを見つけて大事にしたい。




それからそれから、、、、、、

先輩みたいに自分の好きなことを仕事にしたいなあ。世の中そう甘くないけど、望まないと、欲望を持たないと何もはじまらない。
そのための「努力」と「欲望磨き」をしなきゃ。


《20080228の記事》