文学部唯野教授
【出版社/著者からの内容紹介】
これは究極のパロディか。抱腹絶倒のメタフィクションか! 大学に内緒で小説を発表している唯野先生は、グロテスクな日常を乗り切りながら、講義では印象批評からポスト構造主義まで壮観な文学理論を展開して行くのであったが…。「大学」と「文学」という2つの制度=権力と渡り合った、爆笑と驚愕のスーパー話題騒然小説。(アマゾンより引用)
【雑感】
主人公の唯野仁英文学教授のドタバタ大学生活と唯野教授の「文学批評論」という講義の二本立てで成立している。
大学教授の実態、学内政治の実態の一端がかいま見えておもしろい。もっとも、「執行委員会:学部長の実務の手伝いをする。通常は学部長の腹心の教授2名から3名で構成される。教授会の議題の準備、学部予算の配分、年間予定表などを事務長と相談して青写真に作成したり、教授会への根まわしなどを行う、いわば学部長の隠密機構である。執行委員になることは学内の権力機構における出世を意味している。」といったまじめ半分冗談半分の注が大量についているが、ストーリー自体は滑稽を基本としていて、何処まで信用して良いのか分からない。本小説で描かれる教授たちはみんな人間的にクズである。ちなみにうちの大学の先生たちはこんな感じではない。
各章の最後には、各章の名前に準じた唯野教授の文学批評論の講義がついている。例えば、後ろからいくけど、「ポスト構造主義」とか「構造主義」とか「記号論」とか「受容理論」とか「解釈学」とか。
わかりやすくておもしろい。注はほぼまじめであることや自分のすでにある知識と比べても、この部分は純粋に文学批評について書かれていると考えられる。
とってもわかりやすいんだけど、理論の解説だけなので、具体的にそれを小説というテクストに導入するとどうなるのかということまではよく分からない。自分で勉強しろということか。せっかくだから理論を導入した例を少し付してくれたら良かったのに。
それにしても文学批評論自体を小説の一部にしちゃうなんておもしろい。文学を批評するはずの理論も小説になってしまうのだ。講義「文学批評論」では理論を考えた人物や考えたきっかけなんかをきちんと書いていて、「文学批評論」が小説に取り込まれているのみならず、それ自体が小説的であるとすらいえる。
大学名や芥川賞の名前が、早治大学や立智大学、芥兀賞と明らかにパロディであるにもかかわらず、講義「文学批評論」であげられる人物は本物の名前。この、名称におけるパロディーと実名の違いはどういう意図あり?
そういえば、大学ドタバタ生活においても、大学の機構・制度の部分はどうも正しい記述のようだが、教授たちの行動は明らかに常軌を逸している。上と関係ありや。
このウソとマコトの緊密な接近は、読者を混乱させ、ウソをマコトと見せかけるためか。
なお唯野教授は、小説内で野田耽二というペンネームでこっそり小説を発表している。そんな唯野の講義からは小説家としての批評家への不満がかいま見えておもしろかった。
例「イギリスでもそうらしいんだけど,大学教授が新聞雑誌に何か書く場合,大学でやってる厳密で専門的なことの息抜きってことが多いんだよね。畠違いの小説の批評を息抜きでやっちゃいけない。こういう印象批評,あるいは印象批評以下の『面白い』『面白くない』だけの無責任な読書感想文だけはやめようね。」p33
本小説の著者、筒井康隆も常々そんなことを思っているのかな、と。
《20080502の記事》