自由はどこまで可能か(リバタリアニズム入門)

自由はどこまで可能か(リバタリアニズム入門)
森村進 2001 2 20 講談社


 本書は近年、政治思想・社会哲学の世界で話題になっているというリバタリアニズムについて広く解説し、哲学的な普遍性を持った思想として論じている。リバタリアニズムは、現在の日本で進む構造改革の思想的根拠でもあり、それを理解することは必須だろう。内容は分かりやすく、リバタリアニズムのさまざまな立場も丁寧に解説しているので、入門としては確かに最適。


 リバタリアニズム。日本語では「自由至上主義」とか「自由尊重主義」とか「自由放任主義」とか訳される。分かりやすくその立場を説明するのなら、なによりそれは経済的自由と個人的自由を最大限尊重するということだろう。


 精神的自由や政治的自由のようないわゆる個人的自由の尊重を説く一方、経済的活動の自由を尊重せず経済活動への介入や規制や財の再分配を擁護するのが「リベラル」であり、その逆に個人的自由への介入を認めるが経済的自由は尊重するのが「保守派」である。個人的自由も経済的自由も尊重しないのが「権威主義者(共産主義)」になる。このように論点を並べ、身近な思想と比較していけばリバタリアニズムに対する理解が早いと思う。


 このリバタリアニズムの根元的特徴はなにより自己所有権ーーー自己の自由とそれから派生したもの(ex労働、財貨)ーーーを何より重視し、その他の社会権等の過度な重視は認めないことだろう。そこから例えば、国民の最低限度の生活は保障しよう、しかし過度な財の再分配、過度なプライヴァシーの権利、過度な著作権を認めないという立場が出てくる(「過度」という言葉はとってもいいくらいに)。いずれも他者の自由を侵害しかねないからだ。


 そこから導き出される政府の役割は、絶対的貧困を救済するための福祉給付や十分に理由のある公共財(ここでは国防や法秩序も含む)の供給以外にない。国家は本当の本当に最低限度の役割しか与えられない。国家が何かそれ以上のことをするのは個人の自由を侵害するからだ。なかには国家の必要性を認めないリバタリアンすらいる。


 また、そうすれば国家の利権の絡む余地がなくなるだろう。なぜならこの原則を維持する限り、自分だけ有利になりたいという政治的利権の立ち入る隙がないから。もっともskycommuはこの原則がそうそう維持できるとは思えないが。


 リバタリアンには、警察や裁判所すら民営化できる、と考えている者もいるようだ。その方が公正にかつ効率的に業務が遂行されるという。少しこれには説明が必要だろう。本書を読む限りでは不十分で、首肯しえない。


 リバタリアニズムは共同体からメンバーが離れられるという条件の下での共同体内部の自治を認める。だからPTAや愛護会などの内部自治は認められてもそのメンバーを拘束することはできないそうだ。


 個人の基本的自由を最大限尊重するリバタリアニズムは今の社会には相容れない。賛成できない人も多いだろう。僕的にはなかなか魅力ある思想だ。それは僕の、他人に対する感受性の低さが理由なのかもしれない。


 とかく、もしリバタリアニズムを国家の支持する思想に据えるとしたら問題は山積みである。なにより、リバタリアニズムの導入で広がる格差をどうするかである。リバタリアンは格差があってもいい、あってしかるべきだと考えているようだ。結局、リバタリアニズムの導入によって、国民所得の平均も最低ラインの平均も上昇するとしている。本当にそうなのだろうか? さらに、人間とは他人と比較して行動するもので、いくら所得が上がっても他人との格差が広がっては何らかの社会不安が心配されるだろう。多くの人が直感的に人間はできるだけ平等であるべきだと考えている。これを解決せずしてリバタリアニズムを導入し国民総所得が上昇したとしても、真の大多数の個人所得が増昇するとは考えられないし、なにより幸福感は低下するだろう。


 リバタリアニズムは勝ち組と負け組の差を増大させ、財の一極集中を招くと思われる。公平な競争もなくなり経済発展は停滞しないか?


 また、リバタリアニズムの主張に沿って、現在政府の役目とされている広範囲な公共事業や教育、経済政策などを民間にすべて委ねることで効率は上がるかもしれない。しかし、それは大衆にそれらを譲り渡すことと同義だ。大衆の判断でほとんどのことが決するなどこれほど恐ろしいことはない。貴重な文化財はきちんと保護されるだろうか? 外交は右に極端に走らないか? もしくはなんら過去を検討することなくただ謝罪を繰り返すことにならないか? 教育に理性は保たれるだろうか? 東京ばかりが発展して他の国土のどこにも人が住まないようなそんな歪な国にならないか? 図書館は各都市に整備されるだろうか? 経済は将来を見据えることができるだろうか?


 マスコミの情報を批判的に読むことができない大衆の蔓延するこの国(世界)でリバタリアニズムを導入することは上のように極めて極めて危険である。


 さらに言えば、経済は自由な競争市場にまかせておけば、すべてうまく発展するという19世紀的考え方は貧富の差の拡大、労働問題、失業、独占化、不況といった大きな社会問題を起こした。そのため20世紀には、修正資本主義、生存権、労働者保護などのシステムが発展はずだ。リバタリアンは、この歴史を無視できるのだろうか。


 とかく、リバタリアニズムは形式的な自由のもたらす弊害を考慮しなさ過ぎているように思う。単なる強者の論理だという印象を受けた(自分の力だけで強者になるものなんてそうそういない 運や周りの人のおかげで強者になるのだ)。個人の自由を重視するリバタリアニズムは興味深い。だが、多数の本当の自由や幸福のため、政府の介入はリバタリアニズムの主張する以上に必要だろう。


 なお国家による不必要に大きい公共工事に対する批判はなるほどと思った。もっと自分で考察してみる必要がある問題だ。今後のためにもメモっておく。
『 現代のリバタリアン経済学者はバスティアの教訓を公共事業にあてはめて次のように主張する。政府が公共事業に投資したり補助金を出すためには、税金が必要である。納税者はその税金を取られた分だけ支出が減る。公共投資とは、その課税がなかったら納税者が自分のニーズに応じて行う消費や投資の代わりに、もうからない事業に政府が資金をつぎ込むことである。その結果富の総額は、公共投資がなかった場合よりも減少する。しかし多くの人々は公共事業から得られる見える利益に目を奪われて、それがなかったら得られたはずの、もっと大きな目に見えない利益を想像できない。あるいは公共事業から利益を受ける特定の集団がその事業のために圧力をかける。』


 リバタリアニズムの目指す国についてのメモ。
『 リバタニアリズムが理想とする国家は民族との結びつきを重視しないコスモポリタンなものであって、その点では、近代的な国民[民族]国家よりもむしろ、多様な民族と文化を共存させて通商と交流を可能にしていた前近代的な帝国に近い。またそれは、政治的決定を住民に委ねるという点で民主的だが、いかなる政治的決定も個人の基本的自由を侵害できないという点で、純粋に自由主義的な国家である。それは、自由主義的法秩序の維持と最小限の公共財と社会保障の提供という中立的な任務以外に、何ら独自の目的も理想も持たないし、特定の民族の歴史とも結びつかない。
 「そんな無国籍的な国家はそもそも国家という名に値しない」と言われるかもしれない。しかしそれが国家の名にふさわしいかどうかは重要な問題ではない。リバタリアンにとって大切なのは、国家ではなくて諸個人なのである。』


《20070530の記事》