偸盗(There is something in the darkness と 二人の具現者)

芥川龍之介の小説「偸盗」を読んで


偸盗(There is something in the darkness と 二人の具現者)


There is something in the darkness
 偸盗は各年代を通して評価が様々に分かれる作品であるが、著者である芥川龍之介自身は早くからこれに対し厳しい不満と改作を表明していた。
「「偸盗」なんぞヒドイもんだよ安い絵双紙みたいなもんだ中に臨月の女に堕胎薬をのませようする所なんぞある人は莫迦げてゐると云ふだらうその外いろんなトンマな嘘がある性格なんぞ支離滅裂だ熱のある時天井の木目が大理石のやうに見えたが今はやつぱり唯木目にしか見えない「偸盗」も書く前と書いた後ではその位の差がある僕の書いたもんぢゃ一番悪いよ」(松岡譲宛書簡1917・3・29)。
「偸盗をほめて頂いたのは、完く意外でした 僕は あれが嫌で嫌で、本屋の店に中央公論のあるのさへ気なつて仕方がないのです。」(林原耕三宛書簡4・6)。
「偸盗の続篇はね もつと波瀾重畳だよ それだけ重畳恐縮してゐる次第だ(略)僕が羽目をはづすとかう云ふものを書くと云ふ参考位にはなるだらう」(松岡譲宛書簡4・26)。
「「偸盗」なるものは到底あのままで本にする勇気はなしその上改作をこの九月に発表する雑誌まできまつてゐるのですからとても新しい本の中へは入れられません」(中根駒十郎宛書簡5・27)。
「偸盗はとても書き直せ切れないから今年一ぱい延期して九月は新しいものを二つ出さうと思つてゐる」(松岡譲宛書簡7・26)。
「「偸盗」の改作にとりかヽりたいと思ひます」(小島政二郎宛書簡1920・4・26)。
このように友人宛に送った各種書簡からは芥川の、偸盗に対する厳しい評価がうかがえる。結局、書簡に示唆している改作を発表することもなかった。単行本にも未収録である。単行本未収録の小説は四十四もあり結構多いが、それでもやはり単行本未収録という事実から芥川の偸盗に対する強い不満が読み取れる。


 このように偸盗に対し厳しい評価を下していた芥川であるが、それは偸盗に対する期待の裏返しともいえるだろう。この過剰ともとれる偸盗批判には芥川の執筆前の並々ならぬ意欲と自信が込められているのではないだろうか。芥川はその短い生涯、多くの短編小説を残したが特にこの小説を鋭く批判しているのにはきっと、この偸盗に対し特別な思いがあったからに違いない。彼は偸盗を失敗作であると断じたが、この長編小説への挑戦に、芥川のどのような執筆動機が見えるのだろうか?


 この偸盗という作品は後に、海老井英次氏によって羅生門との関係が指摘された。「この「強盗を働きに」「京の町へ」消えていった「下人」のその後の姿を、我々は「偸盗」の中にみることが出来るのである。」① 海老井氏はその根拠として偸盗のメモにある( “There is something in the darkness”says the elder brother in the Gate of Rasho.)(病人及弱者のEgoismを書かんとす。)という文章や羅生門の草稿に見える主人公の名「交野の平六」と偸盗の盗賊の一味の名「関山の平六(後編で交野の平六と記述される)」の同一をあげている。


 確かに、時代設定、羅生門がでてくること、盗賊が主人公であることなど多くの点で羅生門との類似性を見ることができるだろう。なにより、偸盗と羅生門の最も近しいところは舞台である京都の荒廃した様子である。至る所に汚く惨めな死がはびこり、不気味な臭気を漂わせている。それを最も的確に表現しているのは偸盗の冒頭で、太郎と猪熊のお婆が朱雀綾小路の辻で会話をする場面だ。そこで蛇の死骸の描写が何度も出てくる。その死骸は、これから繰り広げられる盗賊と京の不気味な世界を鋭く暗示しているといえるだろう。
「その車の輪にひかれた、小さな蛇も、切れ口の肉を青ませながら、始めは尾をぴくぴくやっていたが、いつか脂ぎった腹を上に向けて、もう鱗一つ動かさないようになってしまった。どこもかしこも、炎天の埃を浴びたこの町の辻で、わずかに一滴の湿りを点じたものがあるとすれば、それはこの蛇の切れ口から出た、なまぐさい腐れ水ばかりであろう。」
「老婆は、鼻の先で笑いながら、杖を上げて、路ばたの蛇の死骸を突っついた。いつの間にかたかっていた青蝿が、むらむらと立ったかと思うと、また元のように止まってしまう。」
「その中に、ただ、蛇の死骸だけが、前よりもいっそう腹の脂を、ぎらつかせているのが見える。」「二人の分かれたあとには、例の蛇の死骸にたかった青蝿が、相変わらず日の光の中に、かすかな羽音を伝えながら、立つと思うと、止まっている。……」
「楚の先に蛇の死骸をひっかけた、町の子供が三四人、病人の小屋の外を通りかかると、中でも悪戯な一人が、遠くから及び腰になって、その蛇を女の顔の上の方へほうり上げた。青く脂の浮いた腹がぺたり、女の頬に落ちて、それから、腐れ水にぬれた尾が、ずるずる顎の下へ垂れるーーと思うと、子供たちは、一度にわっとわめきながら、おびえたように、四方へ散った。」
これらの表現から死、しかも汚く惨めな死が蔓延している京の様子がよく伝わってくる。


 偸盗という作品は羅生門の続きみたいなもんだというのは言い過ぎにしても、芥川が羅生門を強く意識して偸盗の執筆をしたのは間違いないだろう。羅生門は芥川が相当の自信をもって世に送り出した作品である。そして、芥川小説のキーワードであるエゴイズムを最も簡潔に提示した作品だ。偸盗がその羅生門の昇華を担う作品であり、かつそれに失敗してしまったのならば、先にあげた芥川の偸盗に対する酷評も十分にうなずけるだろう。


 偸盗批判に、吉田精一氏は「羅生門系統の王朝物であるが、平面的、絵画的で、構成にも盛り上る力がとぼしい」② という。表現や構成への批判であるが、どのような点が平面的なのか、絵画的だと問題なのか、構成のどこに問題があるのか示しておらず、残念ながら説得力に欠けるといわざるを得ない。

 
 文章を読んでいくと、京の荒廃が目に浮かび、どことなく死臭がするようだ。芥川らしい不気味で軽妙な表現に成功しているといえるだろう。争いの場面もスピード感があって十分に評価できると考える。ただやはり、最後の場面での失速は批判の対象となるだろう。結局、兄弟愛で片づけてしまったのかというそしりをまぬがれ得まい。


 一方、海老井氏は偸盗の執筆動機に「「羅生門」をとりまく「darkness」の中に「something」を見出すこと」① をあげ、「「darkness」の中にある「something」とは、他でもなく、「羅生門」に描かれた無明からの〈救済〉を可能にする何か」③ であると説明している。そして不運にも「兄弟の対立を止揚する「something」として〈兄弟愛〉を捉えながら、それを通俗的理解を超えた明確な実体として把握しきらずに、「血のつながり」といわれるようなものと同次元のものとして描くに終わったのである。」①  として失敗理由を挙げている。これは実に評価できる画期的な意見だろう。


 芥川は羅生門を書き、下人をエゴイズムの闇に解き放った。かつその先は一旦、読者の想像に任せた。そして偸盗を書くにあたって黒洞々たる夜に向き合おうとしたのだ。その闇には何があるのか。エゴイズムの中で見出し得る【何か】とは。


 結局芥川は、その【何か】に無垢で感覚的で本能的な兄弟愛を提示しようとしたが、それを通俗的な理解の内に始終させ単なる血のつながりを脱却しきれなかった。氏のいうとおり偸盗の失敗はここに極まる。偸盗はまさに「主題そのものの把握が不十分」① であり、羅生門の昇華にはなり得なかったといえるだろう。


二人の具現者
 偸盗には二人の女性、沙金と阿濃が登場するがどちらも特異な性質を体現している。一方は魅惑的な外見をもつも不可解で残酷な選択をする美しい悪女として。もう一方は物事をはっきりと把握できない白痴だが純粋な愛を心から信ずる愚かな聖女として。


 まず、美しい悪女についてとりあげたい。沙金という女性は実に艶やかに美しく魅力的に描かれる。外見の描写のみを引けば、まさに男性に愛されるため、男性を魅了するために生まれてきたといってよいほどだ。「あの女の眼を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにはいない。」「小柄な、手足の動かし方に猫のような敏捷さがある。中肉の、二十五六の女である。顔は、恐ろしい野生と異常な美しさとが、一つになったとでもいうのであろう。狭い額とゆたかな頬と、鮮やかな歯と淫らな唇と、鋭い眼と鷹揚な眉と、――すべて、一つになり得そうもないものが、不思議にも一つになって、しかもそこに、爪ばかりの無理もない。が、中でも見事なのは、肩にかけた髪で、これは、日の光の加減によると、黒い上につややかな青みが浮く。さながら、烏の羽根と違いがない。」


 このように外見は非常に性的魅力のある沙金であるが、その反対にたくさんの男に肌を許すなど内面には極めて問題がある。「日ごろは容色を売って、傀儡同様な暮らしをしている」「あの女の多情な性質は、考えただけでも、腹立たしい。そのうえに、絶えず嘘をつく。それから、兄や自分でさえためらわれるような,ひどい人殺しも平気でする。」「自分は、沙金を憎んでいる。が、あの女の眼を見ると、自分はやっぱり、誘惑に陥ってしまう。あの女のように、醜い魂と、美しい肉身とを持った人間は、ほかにいない。」


 また沙金は、多情であるだけでなく、残酷さというか理解できない精神構造をもっていたことも指摘できる。なによりそれは、太郎を殺すためだけに藤判官に襲撃の情報を流し、多くの仲間を危険にさらしたことで理解されるだろう。沙金にとって他の仲間のことなどどうでもいいのである。一体これはどこで線引きされるのか全く不明で不気味だと言わざるを得まい。こんな態度で公然としている沙金に、計画を知らされ、賛同を求められた次郎はいつ自分が裏切られるのか当然疑念を抱く。


 襲撃中の描写からも沙金は理解不能な仕草をし、仲間をおいて逃げ出そうと次郎に言う。「沙金は、この騒ぎのうちにも冷然とたたずみながら、ことさら月の光にそむきいて、弓杖をついたまま、口角の微笑も隠さず、じっと矢の飛び交うのを、眺めている。」「「じゃ、私たちもひき上げましょう。次郎さん、口笛を吹いてちょうだい。」と言った。次郎は、あらゆる表情が、凝り固まったような顔をしながら、左手の指を口へ含んで、鋭く二声、口笛の音を飛ばせた。これが、仲間にだけ知られている、引き揚げの時の合図である。が、盗人たちは、この口笛を聞いても、踵をめぐらす容子がない。(実は、人と犬とにとりかこまれてめぐらすだけの余裕がなかったせいであろう。)【中略】沙金は、月を仰ぎながら、稲妻のごとく眉を動かした。「しかたがないわね。じゃ、私たちだけ帰りましょう。」」 沙金は平気で仲間を戦場におっぽり出す。残酷で理解しがたい女性である。


 さらに注目すべきは平岡敏夫氏が「太郎・次郎はもちろん、猪熊の婆・爺、阿濃の心理さえ、作者はそれぞれの各人の視点に立って描いているのに、沙金についてはその言動を記すものの、心の内部には立ち入っていない。」④ と指摘するように沙金の心理描写がいっさいない点である。沙金というのは非常に重要な登場人物であるにもかかわらず何を思うたかは推測するしかないし、そのヒントも極めて少ない。


 不気味である。奇っ怪である。読者は一番、その愛憎の渦の中心にいる沙金の気持ちが知りたいはずだ。ところが芥川は沙金の心理を描かない。芥川が描くのは沙金の外見的美しさと性的魅力、そして沙金の異常な行動だけだ。そこから見えるのは、まさに理解できない女性を具現化した沙金の姿である。倫理にとらわれず、損得にとらわれない奇っ怪なイメージである。もちろん芥川は、沙金の不気味さを出すために、慎重に故意に内面描写をしなかったのだろう。


 結局、沙金は太郎の殺害を次郎に持ちかけ画策するも失敗し、逆に兄弟愛に目覚めた太郎・次郎に殺されてしまう。ここに平岡氏は救済されざる沙金の姿をみる。「「偸盗」において芥川は、病んだ京の大路小路を歩み、駆ける偸盗たちの人間的救済と認識を感傷的なほどのうつくしさで描きつつも、実はその過程で認識も不可能な女性を逆に描き出したのだ。この女性あるが故に作品―劇の展開があったのだが、惨殺という結果で示されたその認識・救済の不可能性こそがこれまで表現し得なかった女性の魅力の造形を逆に可能にしたのである。認識できぬという新しい認識である。人間救済・人間回復が「うつくしい夢」であることによって、逆に夢ならざる「うつくしい」女性の存在が描かれることになったと言ってもよい。」④ 


 この救済されざる沙金というのはおもしろい着眼点だが、あくまで本書の主題は闇の中にある何か見出すことであるはずだ。沙金の、理解できないという魅力ではない。認識不能という美は、闇の中で何かを見出すための結果として生まれた、と考えた方が自然だといえる。


 また、もう一人登場する愚かな聖女、阿濃は白痴である。常識的な認識力に欠けた人物であるが、ここにエゴイズムのない本当の愛や無明からの救済を指摘する先考論もある。「惑うことを知らぬ無償の愛は美しい。認識の腐臭からもっともとおい単純無穢れの魂を借りて、竜之介はそこに〈無垢の母〉の幻像を託した(中略)畜生道に落ちた悪を〈人間の悲しみ〉にまで浄化する救済、あらゆる悪をつつみこんで、それを〈悲しみ〉としてひきうける抱擁者=〈母〉による救済のモチーフはあざやかである。」⑤ 「阿濃の属性である白痴性、白痴という規定は少し極端かもしれないが、彼女の「阿保」であるがゆえに、自我に執することのない彼女であってみれば、彼女と〈我執〉とは本来無関係であるし、「阿保」なるがゆえの無償性によって、彼女は周囲の人々の〈我執〉をもすべて許す地点、三好氏の言われる「抱擁者=母」の位置にいるわけである。」③


 沙金の読み取れない心とは対照的に阿濃は純粋である。爺との子供を「自分の恋してゐる次郎の子が、自分の腹にやどるのは、当然な事だと信じて」いたり、そこには白痴ゆえの純粋で無垢な感情と愛に溢れている。三好氏のいうように「阿濃の〈母〉は確実に猪熊を救済した」⑤ のだろう。ただ、畜生道の体現者である猪熊の爺がそんな簡単に救済されてよいのだろうかという微妙な不満を持たざるを得ない。したらば阿濃のもつ白痴ゆえの愛はなにをも救済する可能性があるということか。


 こうして、沙金と阿濃の特徴をみてきたが両者に共通するのはどちらも非常に特徴的で徹底的な何かの体現者であるということだ。もちろんなにかを訴える小説である以上、それぞれの登場人物は何かを体現しているといえるだろう。太郎も次郎も、猪熊の爺も婆も、それぞれに何かを体現し活躍している。しかし、沙金と阿濃のそれは異常だ。体現しすぎて二人にはリアリティーがないのである、固有の内面がないのである。沙金は徹底的に美しい悪女になり、阿濃は徹底的に愚かなる聖女になった。彼女らは一種の非人間として、主題「「羅生門」をとりまく「darkness」の中に「something」を見出すこと」① のために芥川によって造りだされ、存在しているのだ。


 そして後の作品にも、美しい悪女と愚かなる聖女というモチーフは何度か出てくる。美しい悪女は、「藪の中」の真砂などに引き継がれ、愚かなる聖女は「じゅりあの・吉助」の吉助などに引き継がれる。偸盗はそのモチーフの明瞭なる発端とみることができるだろう。


まとめ
 芥川は羅生門において提示した、darknessの先にあるsomethingを見出そうとし、偸盗を執筆した。無明に落ちた畜生の救済である。芥川はそのsomethingに兄弟愛や白痴ゆえの愛を見出した。どちらも無垢で感覚的な、本能的な愛である。芥川はエゴイズムの世界に、人間本能の導く美しさや希望を見出したのだ。しかし結局、主題をきちんと理解しそれらの愛をまとめきれなかった。偸盗の失敗はここにある。


 また芥川は、沙金には美しい悪女を、阿濃には愚かなる聖女を体現させた。しかし、その行き過ぎには彼女らのリアリティーを失わせる結果となってしまっている。なお、その二つのモチーフはその後の作品に何度か登場することになる。



引用・参考文献
①海老井英次 「「偸盗」への一視角」 語文研究 1971、10
吉田精一 「芥川龍之介」 三省堂 1942、12,20
③海老井英次 〈我執〉から〈救済〉へのロマン 近代文学考 1974、3
平岡敏夫 「偸盗」の世界―ある読みの試み― 国語国文学薩摩路 S55、8
三好行雄 下人のゆくえ 日本文学 1973、7
芥川龍之介全集 第十八巻 岩波書店
芥川龍之介Ⅱ 有精堂 S52,9,10
芥川龍之介論 三好行雄 筑摩書房 1993,3,10 
芥川龍之介Ⅰ 吉田精一 桜楓社 S54,11,12
日本の文学(芥川龍之介) 中央公論社 S39,10,5
古典と近代作家 長野當一 有朋堂 S42、4,25
芥川龍之介抒情の美学 平岡敏夫 1982,11,25
芥川龍之介新辞典 関口安義編 翰林社 2003,12,18


《2006/07/14の記事を転載》