江戸の市場経済(歴史制度分析からみた株仲間)

江戸の市場経済(歴史制度分析からみた株仲間)
岡崎哲二 1999 4 10 講談社


【本書のまとめ】
 近世、江戸時代の日本経済は当時の最先進国イギリスに匹敵する持続的な経済成長をなしていた。


 その理由に安定政権、貨幣制度の整備、農商工分離で説明できるが、株仲間の存在も重要である。


 徳川政権は債権に対し、法と公権力の保護が完全ではなかった。しばしば、それは、金銭債権に関する訴訟を徳川政権側が受理しないという相対済令によって解除された。当時利息を伴う金貸しは道徳的に忌みられたし、徳川政権はそれだけの人員を投入しなかったからだ。


 しかし、市場経済の発展には債権に対する法と公権力の保護が重要なはずである。公権力がそれを保護しなかったのならば、どうして江戸時代に日本は持続的で高い経済成長を成しえたのだろうか? その制度的な基礎はどのようなものだったのだろうか?


 その問いに対し本書は株仲間の制度を提示したい。法と公権力に代わり、債権を保護したものとして株仲間は考えられるのである。


 株仲間とは同業者の集団であるが、正常な取引の継続を促すような規定が備わっていた。商取引の相手や問屋制家内工業における生産者、自分が雇用している使用人などで不正をはたらいた者がいたら株仲間の内で知らせ、その不正をはたらいた者たちとの取引は禁ずるよう規定されていたのである。こうすることによって、不正が発見されたときの傷が極めて大きくなり、不正行為自体が抑制され、低コストで健全な取引・契約が促進されたと考えられる。


本書のような見方をテストするための絶好の機会を提供してくれるのが、1840年代に実施された天保の改革である。天保の改革では、株仲間が競争を阻害し物価の高さに結びついているとして停止された。その停止前と停止後の状態を比較することによって株仲間の役割を推論することができる。


その時の記述資料と統計データをみると、株仲間が禁止された間、流通機構に深刻な混乱がみられた。価格や供給は不安定になり、経済の沈下がみられた。徳川政権も約10年後には株仲間禁止を解除せざるを得なかったのである。これより、株仲間制度が価格安定や供給安定に寄与していたことが明らかになる。徳川政権からすれば税金も増えるわけだ。


 以上はゲーム理論を活用した歴史制度分析からの視点である。歴史制度分析を使うことによって、経済発展に適切な制度が生まれ存在するメカニズムが分析できるようになった。


過去や現在の様々な市場を、歴史制度分析の視点から考察することによって、市場の機能の枠組みとなる制度には地域や時代によって多様性があることが明らかになっている。(ex,現在であれば日本とアメリカとの雇用制度・下請け制度・メインバンク制の違いなど)


【株仲間とは? ウィキペディアより】
株仲間(かぶなかま)とは、問屋などが一種の座を作り、カルテルを形成することである。株式を所有することで、構成員として認められた。


当初は私的な集団であったが、享保の改革江戸幕府に公認され、冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特権を認められた。田沼意次時代には、さらに積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制が企図された。自主的に結成された株仲間を「願株」、幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。株仲間の公認は、願株の公認を指す。


天保の改革水野忠邦は株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、1841年-1842年に掛け、冥加金の上納を停止させ、株仲間の大半の解散を命じた。しかし、かえって流通の混乱を招き、水野失脚後の1851年、冥加金不要の問屋仲間として再興。1857年に再び株仲間となった。再興後は株数を増やされ、新興商人を取り込もうとした。


明治維新後の1872年(明治5年)、再び株仲間は解散を命じられ、以降復活することはなかった。株仲間構成員の多くは、商業組合に改組されていった。


天保の改革とは? ウィキペディアより】
天保の改革(てんぽうのかいかく)は、江戸時代の天保年間に行われた幕政や諸藩の改革の総称である。享保の改革寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つである。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした。またこの時期には諸藩でも藩政改革が行われた。


目次
1 幕政改革
1.1 人事刷新
1.2 綱紀粛正
1.2.1 歌舞伎への迫害
1.3 軍制改革
1.4 経済政策
1.4.1 人返し令
1.4.2 株仲間政策
1.4.3 上知令
1.4.4 金利政策
2 改革の評価
3 関連項目


幕政改革


12代将軍徳川家慶の信任を受けた、老中首座水野忠邦が中心となり、質素倹約の重農主義を基本とした、享保・寛政時代への復古を目指した。一揆や打ちこわし、大塩平八郎の乱といった国内不安や、アヘン戦争、モリソン号事件などの対外的不安が幕府を取り囲む中、経済改革を中心に、綱紀粛正や軍制改革などが実施された。


改革は忠邦の腹心の鳥居耀蔵らとともに推進され、水野が退陣するまでの約3年間行われた。


人事刷新


大御所時代に幕府の風紀は乱れ、賄賂が横行した。頽廃した家斉時代の幕府高官らは、
水野忠篤(御側御用取次)・・・免職、5000石没収の上、旗本寄合席(無役)に左遷。
林忠英(若年寄)・・・免職、8000石没収の上、菊間縁頬詰に左遷
美濃部茂育(小納戸頭取)・・・免職、3000石没収の上、甲府勤番に左遷
田口喜行(勘定奉行)・・・免職、2000石没収の上、小普請組(無役)に左遷
中野清茂(元新御番組頭)・・・登城禁止、屋敷没収


らをはじめ、処分を受けた総計は御目見以上(旗本)で68人、御目見以下(御家人)894人であった。そして代わりに
真田幸貫(老中、信濃国松代藩主)
堀親寶(側用人
遠藤胤統(若年寄近江国三上藩主)
本庄道貫(若年寄美濃国高富藩主)
本多忠徳(若年寄陸奥国泉藩主)
遠山景元(北町奉行
矢部定謙南町奉行
岡本正成(勘定奉行
跡部良弼勘定奉行
川路聖謨(小普請奉行)
鳥居耀蔵(目付)
江川英龍韮山代官)
渋川六蔵(天文方見習兼御書物奉行
後藤三右衛門(金座御金改役)
高島秋帆(砲術方与力)
らを登用した。


綱紀粛正


倹約令を施行し、風俗取締りで芝居小屋の江戸郊外(浅草)への移転、寄席の閉鎖など、庶民の娯楽に制限を加えた。歌舞伎役者の七代目市川團十郎人情本作家為永春水柳亭種彦などが処罰される。


歌舞伎への迫害


とくに歌舞伎への弾圧は苛烈を極めた。團十郎の江戸追放や、役者の生活の統制、外出時の網笠着用の強制などが実施された。それまで江戸の繁華街にあった江戸三座中村座市村座守田座)を、1841(天保12)年の中村座の焼失を機に建替えを禁止し、郊外であった浅草の一角の猿若町に三座を移転させた。廃絶まで考慮されたがそこまでに至らなかったのは北町奉行遠山景元の進言によるものと言われている。 歌舞伎劇場が市内にもどってくるのは1872(明治5)年まで待たねばならなかった。


軍制改革


清がイギリスにアヘン戦争に敗れたことにより、従来までの外国船に対する打払令を改めて、薪水給与令を発令し、燃料・食料の支援を行う柔軟路線に転換した。一方で江川英龍高島秋帆に西洋流砲術を導入させ、近代軍備を整えさせた。


経済政策


人返し令


幕府への収入の基本は、農村からの年貢であったが、当時は貨幣経済の発達により、農村から都市部へ人口が移動し、年貢が減少していた。そのため、江戸に滞在していた農村出身者を強制的に帰郷させ、安定した収入源を確保しようとした。


株仲間政策


高騰していた物価を安定させるため、株仲間を解散させ、経済の自由化を促進しようとした。しかし、株仲間が中心となって構成されていた流通システムが混乱してしまい、かえって景気の低下を招いてしまった。なお、この際に株仲間の解散を諌めた矢部定謙が無実の罪を着せられて非業の死を遂げている。


上知令


上知令を出して江戸や大阪の周囲の大名・旗本の領地を幕府の直轄地とし、地方に分散していた直轄地を集中させようとした。これによって幕府の行政機構を強化すると共に、江戸・大阪周囲の治安の維持を目的とした。上知令は大名や旗本が大反対したため実施される事は無く、逆に、これが、3代将軍家光の武断政治の世なら通用していただろう、と揶揄され、将軍家慶からも撤回を言い渡されるほどの不評であった。さらに、鳥居が反対派に寝返ると、1843年の水野退陣のきっかけになってしまった。天保の改革の切り札となるはずだった上知令は、天保の改革の存在意義自体を否定する事になった。


金利政策


棄捐令・相対済令の公布とともに、一般貸借金利を年1割5分から1割2分に引き下げ、武士のみならず民衆の救済にもあたった。


改革の評価


天保の改革が行われた時期には既に幕府の権威が低下してきた事、加えて財政のみならず行政面など問題点が多かったため、結果的に改革が煩雑となってしまい、社会を混乱に導き失敗と判断された。一方で、それに対して同時期に長州藩薩摩藩はそれぞれ国情に応じた改革を実行した。その成果によって藩の財政は改善され、幕末には西南雄藩と言われる程の力を得ることができた(もっとも、諸藩の場合には行政区域が狭くて課題が少なく、その分経済・財政問題に集中できたという側面もある)。


《20070428の記事》