森と湖のまつり

森と湖のまつり
武田泰淳 S37 新潮社

内容(「BOOK」データベースより)

北海道の広大な自然を舞台に滅びゆく民族の苦悩と解放を主題に展開する一大ロマン。アイヌの風俗を画く画家佐伯雪子、アイヌ統一委員会会長農学者池博士、その弟子風森一太郎キリスト者の姉ミツ、カバフト軒マダム鶴子など多彩な登場人物を配し、委員会と反対派の抗争の中で混沌とした人々の生々しい美醜を、周密な取材と透徹した視点で鮮烈に描く長篇大作。

感想

○本書を読んでいて、著者の「滅亡について」という随筆を思い出した。「滅亡について」が滅亡の個々の例をたどりながら、滅亡についての思索を深めるものだとしたら、本書は滅亡の実相を小説として迫ろうとしたものだろう。

本書はアイヌを題材として扱っている。時代の変化、そしてそこを必死で生きる人々を思えば、アイヌ文化が滅びる、というのは非常に誤解を与える捉え方だとは思う。なぜならそれを受けつぐ人々が、時代の変化に対応するなかにこそアイヌの文化はある、という見方も成立すると思うからだ。文化は決して固定化されたものではなく、そこに生きる人々の試行錯誤のなかにある、というのである。

しかしそれはそうでも、近代化の波が押し寄せ、アイヌの文化を根底から支えた生き方がほとんど不可能であることもまた事実だ。そして西欧や日本人の価値観や生き方がぐいぐいと押し寄せてくる以上、在りし日の「アイヌ文化」を規定するなら、それは間違いなく滅んでいっている。

「ただ私が心配なのは、あれほどアイヌの祭りを大切にする二人が、ほんとうにアイヌの神様を信じているかどうかと言うことですよ。口さきでなく、胸の底の底でね。おそらく、あの二人にとって、それはむずかしかろう。もしそうだとすると、アイヌ精神を純粋に保存し、守ろうとする統一委員会は、一体何を心の拠り所にしたらいいんでしょうか。私には、それが恐ろしい。アイヌ族の繁栄をはかり、ウタリの幸福を増進する。あの二人ばかりじゃない。人間味のある人間なら、誰でもそれは考えている。問題はアイヌの繁栄と幸福のために、何をどのようにして祭るかと言うことです。森のなかで湖のほとりで、本心、いつわりなく、何をどうやって祭ったら、アイヌ人として日本国民として、また人類の一員として、暗い苦しみが明るい喜びになれるだろうかと言うことです」p64

「そうだよ。森の祭でも、湖の祭でも、本来は住民ぜんたいが、そろってやるものさ、な。部落だろうと、市街地だろうと、ほんとは、そうやるもんだろ。だけどな。一体、ほんとというのは何が全くのところ、ほんとなんだい。部落ぜんたいとか、住民ぜんたいとか言ったって、第一、そういう『全体』がなくなっちまったんだ。そうだろ。どこを見たって『全体』なんてもな、ありゃしない。日本ぜんたい、トウロぜんたい。そんなものありゃしない。てんでバラバラさ。」p386


本書にはアイヌの在り方を守ろうとする人も登場すれば、アイヌの血を隠すことで世を生き残ろうとする人もいる。アイヌを表看板に掲げることで宣伝材料とし、資本主義に対応しようとする人もいる。連帯して平和裏に世を変えようとする人もいれば、暴力も辞さない乱暴な方法で世を変えようとする人もいる。己の生に、アイヌうんぬんをあまり頓着しない若い人もいる。

在りし日のアイヌの文化が滅んでいくなかで、それに関わるさまざまな人々の群像劇、というふうに本書は捉えられると思う。

ただその喧噪のなかでも、人々の苦しみや悩みを無視するかのように時は流れ、時代は移っていく。滅びゆくものもあれ、次世代のなり手もあれ、かれらが渾然一体となって日はめぐる。「滅び」のさまざまな面をえがきながら、そのなかで力強く生きていこうとする人々の姿が印象的な物語であった。



武田泰淳の「描写」にはときおりハッとさせられる。
そうしてときおり興奮するたび、だから僕は武田泰淳好きなんだな、って思う。

「描写」についてとても参考になる指摘があった。

「 《描写》は逆に、物語の特定の部分を詳しく伝える文章です。
 詳しく伝えるために、たくさんの文章を使いますが、その間物語はまったく(ほとんど)進みません。

 《描写》している間、物語はスローモーションかストップモーションになります。

(中略)

 説明(要約)が物語を進めるために書かれるのに対して、《描写》は物語に説得力を持たせるために、いえもっと強く、物語を成り立たたせるために、書かれます。
 むしろこれを小説の定義としてもいいくらいです。
 
 なぜ小説に《描写》が不可欠なのかといえば、小説とは、《描写》をフィクションの根拠とする文学であるからです。

 物語全体がその上に成立するような最大の謎(なぜwhy)に対して、別の理屈やデータを外部から持ってくるのでなく、作品内の《描写》(どのようであるかhow)で応じるもの、と言い換えることもできます。
 
 小説はもちろんウソ話(フィクション)です。
 しかしウソなら何でもよいのかといえば、そうではありません。
 小説書きがミューズに問われているのは、次のような問いです。

 「汝、この偽りごとを何を持って贖(あがな)うや?」

 小説書きは答えます。

 「描写によって! 見ることができぬものさえ描く描写によって!」」

(「読書猿Classic: between / beyond readers 、 物語は作れたがどんな文章で小説にしていいか分からない人のための覚書」、くるぶし(読書猿))http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-712.htmlより

このように見方を整理させていただいたうえで「森と湖のまつり」をみると、例えばこんな描写がある。

「ミツのいる窓ぎわには真鍮の洗面器が、凹んだ部分だけ黒く残して光っていた。紫色の小さな野花を挿したサイダア罎の青さが、その瞬間の雪子には、青空の色より水の色より、意識的な、選ばれた色のように見えた。」p52

「ミツの肉体から、急にその年齢を判断することは、専門家でない雪子にはできなかった。急速に衰えてしまった女の醜さと、いつまでも永持ちする青春の強さとが、骨組のしっかりした一つ身体に、同居していた。耐えがたい労働に絶えまなく痛めつけられてしまった、一個の肉体にはちがいなかった。だが伸びのよい手脚のつけ根の丸みや、小麦色の乳房のふくらみには、辛い運命もついに手を触れられなかった新鮮さがあった。」p52


これは主要な視点人物である「雪子」が、あるアイヌ人女性である「ミツ」に身分を隠して会う場面である。この後ミツは主要登場人物としてアイヌを語り、そして物語をぐいぐい回していく一人となっていく。さてそうした場面であるが、「サイダア罎の青さ」に異様な視線が向けられ、二人の出会いになにがしかの運命のようなものが暗示されている。

また、雪子のミツに対する第一印象では「醜さ」と「青春」を同時みている。事実、けっこうな年のはずのミツは、のちのち純粋な愛につき動かされる。それにしても女の骨格や関節のつけ根から老いはともかく「運命もついに手を触れられなかった新鮮さ」を見出す、このするどいというか、気持ち悪い視線。

どうしたらこのような語りを生み出せるのか。物語に没入してはこのような俯瞰的で、ある種はずした視線は語れまい。どこかで物語から一歩身をひきつつ、なにがしかのひらめきが武田泰淳には降ってくるのだろうか。