アジアのなかの戦国大名 西国の群雄と経営戦略

アジアのなかの戦国大名 西国の群雄と経営戦略
鹿毛敏夫 2015 吉川弘文館

内容、出版者ウェブサイトより

織田信長が京都で地盤を固めつつある頃、大友・大内・相(さが)良(ら)・松(まつ)浦(ら)・島津ら西日本に本拠を置く戦国大名は、「天下統一」とは異なるもう一つの志向性を有していた。琉球・朝鮮・中国・シャム・カンボジアなど、「アジア」を視線の先に意識した彼らはその交易で何をしたのか。乱世をグローバルに生きた彼らの領国経営から、戦国時代を国際的に再評価する。

感想

・「日本国」の歴史教科書であれば、どうしても領土の一体性といったものが脳の背景にちらつく。まあ、大和王権以降、程度の差こそあれ、共通の政治権力が日本列島にある程度君臨していたから、不当な見方ということでもないだろう。ただそうした視座のもと、教科書は戦国時代を語り、それは織田信長豊臣秀吉徳川家康にいたる「天下統一」への道筋がさも「歴史」であるかのようにえがいてきた。しかし特に室町時代以降、土着の勢力が守護大名、そして戦国大名と固有の政治権力を有して領国を支配するにいたる。そしてそれは権力の濃淡はあれ、江戸時代まで続いている。歴史はそう簡単にわりきれるものではない。まあ、こうした批判はときおり目にするものだ。

本書は従来の政治権力に近く、また肥沃な濃尾平野や京都周辺を陣取った戦国大名が日本列島全域の支配に突き進むなか、主に九州を支配した戦国大名たちの戦略を論じる。九州といえば中国や東南アジアに地理的に近い。そうした優位性をいかして各国との交易を進め、国力の強化に努めていたというのである。

・史料をきちんとあげている点は評価できる。しかし九州の大名の特質性を論じようとするあまり、論の飛躍がときおりみられた(釘野千軒遺跡を硫黄の流通で成立した町場だと、あいまいな状況証拠で断定するところなど)。

・本書の書きぶりが若干気にかかる。著者は主に九州の大名の戦略をいいたててかまびすしい。しかし簡単にいえば地理的に近いアジア各国と貿易して金を稼ぎ、領国支配を強化しましたよ、というだけに過ぎない。
その戦略の先に何があるのか、大名たちは何を目指したのか。著者は「アジアン大名」とおおげさにいうわりには分析もまともな価値づけもしていない。ただ実態を紹介するだけだ。
しかも「アジアン大名」たちは、最終的には豊臣秀吉服従しているわけで、その戦略は総合的な結果としては失敗している。つまりミスったわけだ。
貿易強化という戦略が間違っていたのか、それとも方向性はあっていても規模が足りなかったのか、それとも貿易強化は有効な策だったがそれでも日本の中央からは遠いという地理的劣勢をはね返せなかったのか。
ここらへんを論じない限り「九州の大名たちによるアジア各国との交易」という「戦略」は、何も分析も価値づけもされずただ表層を紹介されているだけだ。

また著者も最後のほう(191)で以下の問題提起をしている。
戦国大名による表裏を使い分けた遣明船派遣政策が、明代中国の政治・外交政策にどのような影響をおよぼしたのであろうか。あるいは、東南アジア諸国との善隣外交関係の構築で競合する諸大名の各政策が、シャムやカンボジアの政治動向とどう結びつくのであろうか。」

それを分析してから「アジアのなかの戦国大名」という仰々しいタイトルをつけてください。

メモ

・明との貿易では火器の普及にともない、硫黄の輸出が多い。当時硫黄の産地だったのは豊後のくじゅう山と薩摩の硫黄島でここから産出する硫黄は大きな利益をもたらした。ここを支配していた大友氏と島津氏にはその点で優位性があった。

室町時代から戦国時代にかけて大内氏が滅亡して以降、明との勘合貿易は断絶したといわれるが、それは誤り。西日本の戦国大名たちによって明との交易が続けられていた。その際、明から認められれば正式な朝貢貿易を行い、認められなければ警備の薄いところで密貿易を行った。