古代日本人の自然観 古事記を中心に

とてもおすすめ!!
古代日本人の自然観 古事記を中心に
舟橋 豊 1990 審美社

内容、帯より

現代日本人の心の深層に沈着する、根源的・土着的「日本人の心」というわれる〈何か〉。縄文や弥生の土の香のする郷愁に似た〈何か〉。著者は「古事記」を手がかりに神話の森に踏み込み、その自然観、死生観、神霊感など古代日本人の精神構造究明を試みる。

感想

○ときおり推論が飛躍しており納得できない点もあったが、基本的に丁寧に論を組み立てていたと思う。「古代日本人の自然観」という抽象的でかつ枠の大きいテーマをよくまとめていたと思う。大変勉強になった。

○自然観といっても、現代人以上に自然に抱かれ左右され振り回された古代人にあっては、それはほとんど世界観といってもいいだろう。ゆえに本書は、帯に書いてあるように、自然観を追究したというよりもそれ以上の大枠、古代人の精神構造に迫っていると思った。

古事記日本書紀といった神話から読み解くことのできる日本古代人の自然観とは何か?

本書にはいろいろ書いているが、総じて僕が感じたのは、「太陽」と「稲」に対する極めて高い関心だ。
古代人たちが祈りを捧げ、あるいは支配者たちが自らの祖先とした神々には、「太陽」や「稲」に関する言葉が含まれている例が実に多い。つまり太陽や稲を神格化したものということだ。

古代人の気持はよく分かる。ほとんどの生命は日の光を浴びて不思議と生じることができる。本文の言葉を使えば、「万物生成の根源」。古代人たちの世界はまさに太陽(天候)の調子に左右されたのだ。
そしてその陽光を浴びて主な食料となるのは「稲」。その出来不出来は生命に直結するし、支配者だって自らの正当性がかかってくる。稲の不作は祀り事を行う王家の責任問題だ。
古代日本人たちが主として「太陽」や「稲」の神霊に祈りを捧げ、あるいは支配者たちが偉大なる我が祖先神にその神霊を当てはめたのも全く宜なることである。

本書を読んでいてあらためて以上のことを痛感した。

ただ、古代人のこの感覚はあくまで頭で理解しているに過ぎないのだろう。言葉で理解しているに過ぎないのだろう。

古代人たちの精神を真に理解するには? 彼らの気持ちを身体で理解するには?

それには、古代人たちがおかれたような自然に抱かれ、それと同時に振り回される境遇におかれることが必要だろう。
そして祈ること・祀ることこそが生活を安寧させる方法であり政治そのものであった世界観を信じ込むことが必要だろう。

そういう厳しく冷酷な環境に身をおいてのみ、太陽や稲に対する渇望ともいえる信仰がみえてくるのではないか。そうなれば古代人の精神を身体感覚としてつかんだといえると思う。

近代人にゃあ、無理だね。

大和言葉の語源や言葉と言葉のつながりを追究していくことを、古代人の精神を探るための一つのアプローチとしており、そこも勉強になる点が多かった。

メモ

○(合理化と科学的思考による近代化を進めてきたなかにも、日本人の意識の古層に残るなにかを「古事記」のなかから探りたい。)

○(古代日本人は精霊を宿した「もの」や「こと」に囲まれて生活しており、現代人の鈍化したそれと違って、異様な鋭さを外界の「もの」や「こと」に対してもっていた。)

○「神々の物語がたとえ架空のフィクションであるとしても、そこに活躍する神々に呼びかけ、訴え、祈る祭祀は紛れもなく現実のもの」。
「神々の世界(神話)は彼らにとって現実そのもの、あるいは少なくとも、疑似現実」。

古事記に描かれている世界像からは、「政治史的な背景とイデオロギーの反映を読みとると共に、律令制的古代社会の存立の基礎として最重要な関心事であって稲作農耕の順当・円滑な進行を保証するために古代人が当時の知識の粋を集めて考え出した呪術や祭祀の神話的反映・反復と、それらを支え、根拠づける神霊観・自然観・宇宙観を読みとることができる。」

○(祭祀が有効にはたらくためには、祈りの相手である神々の役割や世界、秩序についての詳しい知識が必要。このことが神話の展開を促した。)

古事記には、「人間界と神霊界とを連続的・総合的に把握・説明し、それ故に人間の取るべき行為に確実な指針を与えることができると彼らが信じた、〈コスモロジーとしての神話〉」という側面と、「各々の地方・豪族・村落が持っていたと考えられる自然発生的な原神話の群を、大和の統一政権がそのイデオロギー的要請に基づいて取捨選択し、それらを大和の王権の神授性・正当性の公認・正史化という政治的観点から再編成した、きわめて政治的な神話−−〈イデオロギーとしての神話〉」という二つの側面がある。

○「葦原の中つ国」について
・葦原は稲作好適地かつ未開墾地の象徴。未開と豊穣の象徴。稲作の予定地、候補地。
・「葦原の中つ国」はケガレた土地とされることもあるが、天つ神が支配すれば、「豊葦原の中つ国」となる
・「葦原の中つ国」の「中」は、「高」を冠した「高天の原」に帰属していること(あるいはその運命にあること)を示している。「このように「中」には「豊」と類似の、言葉の呪術がひそんでいて、この語を付けて呼ばれ語られたもの(対象)を呪縛する力、呪力をもっている。」

○「目に見えない時間の流れは節目ごとの稲の変容で具体的に示され、かつ計られた」

○原書の神とされるとされる「アメノミナカヌシ」。この神を祀る神社も氏族もなく、民間で信仰された形式もなく、記紀にも最初に出てくるだけ。この神は日本土着の神ではないのではないか。
この神が意味するのは「中央」であり、当時の政治的イデオロギーが中心を要請し、この抽象的、思弁哲理的な本性をもつ神を新しく挿入したのだろう。

記紀神話は、神々の再編成と中央集権化をはかるため、「競合する氏族・部族の神話・祭祀を一つにまとめ、それを当時の社会組織に相応した一定の秩序・ヒエラルキーの中に統合して、より普遍的な単一の国家神話としてまとめあげ」ようとしたわけだが、そのために「世界の中心にいて君臨するとされた至高神の日本版を作って、土着の神々の上に立たせ」た。

記紀神話で最初に生じた「三神は「隠身」の神であり、姿を隠しているが、姿を隠すことによって逆に万物・万象・一切に偏在することになる。」

○神霊を意味する「霊(ひ)」と太陽を意味する「日(ひ)」は、イメージの類似ないし同一性によって結びついている。だから音が似ている。

○「日(ひ)」、「火(ひ・ほ)」、「稲(ほ)」は、イメージの類似ないし同一性によって結びついている。だから音が似ている。

○日の神アマテラスの子孫たちは稲霊(いなひ)に関わる語−−ヒ(霊)、ホ(稲・火)、ケ(饌・食)、セ(神稲)などを構成要素としてもっている。日継ぎの御子たちは太陽や稲の霊と深い関わりをもっている。
彼らのとり行う祀と政の究極の目標は、稲の順調な育成と収穫をはかり、豊葦原に対する支配を確立し、かつ確認すること。

またアマテラスの御子にアマテラスの力が分与されたと考えると、アマテラスは日の霊であると同時に稲の霊であるともいえる。

○日本神話には、強引に奇数でそろえるなど、中国思想の影響がみられる。

○中国の「気」と日本の「ヒ」の違いについて。
両者とも、万物の根源であることや無形のエネルギーであることで酷似している。しかし両者には相違点もある。
「ヒ」は万物の根源であるが、この語で表される世界の万物は自生自発的に生命のように生成していく。「ヒ」は自然的な生命発現力がある。「ヒ」は生と成と性の熱気を宿しておりアニマ的生命性に満ちている。アニミズム的。

一方中国の「気」は、「ひ」のようなチの通った生命的な側面は捨てられ、抽象的な最高原理となっている。

○「『古事記』の神話的世界においては、宇宙も歴史も、人も稲もすべてが、「ヒ」の威光と恵みを受けて「ヒ」から生成し、原初の「ヒ」の神と、その霊能を受ける「ヒ」継ぎの王たちの連綿たる支配と祭祀のもとで、とめどなく展開・増殖していく。」

○「トコ(常)」と「ネ(根)」は流転してやまない無常な世の中で時間的にも空間的にも不動な「なにものか」。生命に関していえば、死を超えて復活と永世を保証する「なにものか」

○「トキワ」の語源は「床(トコ)岩(イワ)」。
「トコシナヘ」の原義は「床(トコ)石(イシ)の上に」か。