吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日

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吉原花魁日記 光明に芽ぐむ日
森 光子 初出1926 朝日新聞出版

内容、カバー裏より

「もう泣くまい。悲しむまい。復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう―」。親の借金のため19歳で吉原へ売られた光子が、花魁・春駒として過ごした日々を綴った壮絶な記録。大正15年、柳原白蓮の序文で刊行され、当時の社会に波紋を呼んだ、告発の書。

感想

○とてもおもしろかった。すっごいおもしろかった。いろいろ考えさせられながら読んだ。

本書はつらい日記だ。

周旋人にだまされて娼館に娼婦として連れてこられた著者。あれよあれよという間に美しい着物を着せられ、疑念をもちつつも混乱して何もできないうちに客をとらされてしまう。
最初に多額の借金を背負わされ、もう娼館の奴隷のようなものだ。

本書にはそこでの日々の出来事や思ったことが綴られる。

娼館といえば、一般には目に触れない世界だ。実体は分かりにくい。大正のころともなればなおさらだ。本日記からは娼館のシステムや娼婦の日常がうかがえ、史料的価値の高いものとなっている。

そしてそれ以上に。
本書に価値があると思うのは、悲しく恨めしい立場に追い込まれた著者の、その気持ちが率直に書かれていることである。伝わってくることである。

恐怖。自分を犯す男性に対する恐怖。
周旋人や娼館主、自分を買っていく客を恨めしく思う気持ち。
自分をだまし汚した者たちへの生々しい怒り。
尊い人間性を麻痺さして、殺」されていく自分への鬱々たる心情。

読んでいてつらかった。読み進めるのが苦しかった。

これは過去に終わった話でもないし、人ごとでもないのだ。
多くの女性が現代でも、著者と同じような気持ちを抱いて夜の仕事をしているのだろう。
最近でも、あるAV女優が引退したあと、AV女優時代の苦しさを述べたブログが話題になった。

今だから正直に言いますがあの時はその仕事を選ぶしか私には道はありませんでした。後戻りもできずその場から逃げることもできず自分の感情も何かの力でコントロールされているかの様でした今だったら絶対選ぶ道ではなかった・・・

でも当時の私はこの先に自分の夢が叶うと錯覚してました。だから自分なりに頑張ったんです。でも、結果、夢は叶わなかった

周りの人にも相談できない 強がった姿しか見せれないがむしゃらに頑張らないと 自分が壊れそうで平常にいれなかった。ホントの私はどこ?

こういう結果になってしまったことはとても悲しく思いました。たくさんの人に衝撃与えたと思います。後悔してないって言ったら嘘になるかもしれないけど得たものもあれば失ったものもありました。それは身で感じます。

(あえて出典は示しません)

性産業に従事する女性たちの多くが自分と折り合いをつけながら仕事を成してきた。

でも・・・・・・
本当はその折り合いが折り合いに過ぎないのではないか。本日記の著者のように苦しみ恨めしく思うのが当初で、多くの人々の折り合いは社会からおしつけられたものではないのだろうか?

○本日記は苦しみを訴えるだけでなく、いろいろなエピソード、感情が残されていて、なんだか著者が身近に感じられた。
家族に対する強い愛情。
日頃の生活。
怪談話に興じるなど仲間内でのたわいもない会話。
美しい着物に一時喜びを覚えたこと。
客を恨むと同時に、客に選ばれなくてつい感じてしまう「情けな」さ
紳士然とした男の、実際はケチな様子。
後半では、周旋屋にだまされて娼館に連れてこられたとばかり思っていたが、実は母親は自分の行く先を知っていて娘である自分を売ったのではないか、という疑念も記されていた。p266
著者自身も述べているけれど、50を過ぎて苦労して社会をわたってきた母親が知らないはずないよね。家族に対する愛情が特に前半にたくさん書かれている分、このところの記述を読むのはつらかった。

○著者は頭の良い女性なのだろう。
周りの様子をよく見ている。
人の気持ちをよく推測している。
どうして現状のようなシステムになっているのか推測しようとしている。
マンドリンを弾き、啄木を好む少女。
100年後の人が読んでも分かるような明快な筆致で日記を記している。

○娼婦たちは借金をかたに働かされている。
性を売って稼いだカネは25%しかもらえず、それすらも何から何まで費用として取られてしまう(客への電話代や髪結いの代金まで!)。
ゆえに主人への借金を減らすことがなかなかできない仕組みになっている。

生理や体調が悪いときも働かされている。

○本日記には著者の生きた証が刻みつけられている。
日々の出来事。そしてそこから抱いた著者の強い想い。
それが確かに刻みつけられている。著者の生きた証、著者がこの世で確かに生きたこと、心をぐらぐらと動かして確かに生きたことが刻みつけられている。

本書の内容からいうと不謹慎かもしれない。でも僕にはこのことがうらやましく思ったのだ。

自分はそんなに心を動かして、強い感情をわきおこして生きているのだろうか?、と。
そしてそうでないのならば、確かに私は生きている!と、力強く言えるのだろうか?、と。

補足

「遊女」:ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%BC%E5%A6%93#.E6.98.8E.E6.B2.BB.E4.BB.A5.E9.99.8D

一般的には、宴会席で男性客に踊りを始めとする遊芸を主に接待し、時代、及び立地により、客の求めに応じて性交を伴う性的サービスをする事もあった。江戸時代の遊女の一部は女衒(ぜげん)から売られた女性であったが、高級遊女の大部分は、廓(くるわ)の中や、遊芸者層で生まれた女子の中で、幼少時から利発かつ明眸皓歯(めいぼうこうし)な者が、禿(かむろ)として見習いから育てられた。だいたい10年ほど奉公し、年季を明ければ(実年齢25〜26前後)自由になるが、それ以前に身請されて結婚、あるいは囲われる者も多く、また一部はやり手(遊女の指導・手配などをする女性)や縫い子、飯炊きなどとなり、一生を廓の中で過ごす者も存在した。また、雇い主からの折檻、報酬の搾取など劣悪な環境で働かされた者が多かった。

メモ

「幾年かかってもよい、出られるときが来たなら、自分のなすべき事をしよう。
もう泣くまい。悲しむまい。
自分の自分の仕事をなしうるのは、自分を殺すところより生まれる。妾は再生した。
魁春駒として、楼主と、婆と、男に接しよう。
幾年後に於て、春駒が、どんな形によって、それ等の人に復讐を企てるか。
復讐の第一歩として、人知れず日記を書こう。
それは今の慰めの唯一であると共に、また彼等への復讐の宣言である。
妾の友の、師の、神の、日記よ!
妾はあなたと清く高く生きよう!」p48

なるほどと思った指摘

○「松風亭日乗」より
http://densukedenden.blogspot.jp/2010/04/blog-post.html

人間というのは、環境に適応しようとするものだ。花魁のように過酷な状況にあるものは、そうすることで自分を守ろうとする。進んで客を取り、花魁としての生活に埋没しようとするのだ。それは、人間としての正気を失うことだと言ってもいい。しかし、著者は日記を綴ることで正気を保ったのだと思う。(ただ、それは著者に何倍もの苦しみを与えることになったが。)

○「 横丁カフェ」より
http://www.webdoku.jp/cafe/yamaguchi/20100319105717.html

この日記を書いた90年前の一人の女性が、必死に自分を守り抜いたとことに感動する。それで充分でないかと思うのです。よく「自分に負けた」という言葉を聞くし、自分も言うのですが、彼女が闘い乗り越えたものに比べればそれがなんだっていうのだろう。

○「甘い二輪生活」より
http://amainirinseikatsu.blog13.fc2.com/blog-entry-64.html

作者は、啄木の詩集を愛読していたり、マンドリンを嗜んだりと、教養を感じます。
そして、誇り高き人で、男に媚びようとしません。
その心意気が、お客の心をそそるようで、宿のでも人気の花魁になっていることが書かれています。

なかでも下衆な行いを作者から「馬鹿野郎」と罵られて、それに「女に馬鹿野郎なんて云われたのは生まれてはじめてだ」と、えらく歓心する客がいたエピソードが印象に残りました。
作者はその客を気味悪がりますが、男の身体の私としてはわかる気もします。
男が偉そうにして、女が諌めるのも憚られるような社会は、実は男にとっても窮屈なのです。
作品の主題とは別に、そういった男性の業を感じずにはいられない作品でした。