倭国 東アジア世界の中で

倭国 東アジア世界の中で
岡田英弘 1977 中央公論新社

内容、出版者ウェブサイトより

本書は中国の史料を基礎に、確実な事実を積み重ねて、日本をとりまく国際情勢を把握し、東アジア全体の民族の興亡と政治の動態、大陸から日本にまで及んだ壮大な商業ルートを明らかにし、華僑の来日とその背景、卑弥呼の王権がどのような状況で成り立ちえたかなど、意外なドラマを展開する。大きな流れを踏まえた視点で・日本書紀・の伝承に新たな光をあてて日本古代史の謎に大胆な解釈を加え、日本民族と国家の誕生過程を描く。

感想

○「倭国」を、中国を中心とした東アジア世界の激動の中に位置付け、その特徴をつかもうという本。この視点は重要だと思う。

○論理の飛躍や自分の都合のいいように解釈している部分が多すぎて、とてもまともに読めるものではなかった。著者は史料批判をしようとしていて、それはそれでとても大切なことだが、実態はほとんど著者のファンタジー・妄想が書き連ねてあるだけで、史料批判の体を成していない。根拠を示さず、思考の跳躍した断言が多くて読み進めるのが苦しかった。

とんでもない妄想本。

本書ではどんな妄想が繰り広げられているか?
例えば、紀元前一世紀の倭人諸国は、沿岸を陣取って中国商船を迎えていた交易の拠点、とか。
卑弥呼を盟主とする祭祀連合を作り上げたのは、日本各国の市場を支配し、連絡を取り合っていた華僑の力、とかとか。

解釈としてはおもしろいかもしれないが、根拠なくこのようなファンタジーを繰り広げられても困惑するほかない。
正しそうなのかどうなのか、そもそも考察の俎上にあげることができないのである。

記紀歌謡、万葉集にはほとんど漢語の借用がなく、そのことが不自然であるという。
失笑だ!
なんで失笑かって? そもそも「記紀歌謡、万葉集にはほとんど漢語の借用がな」いことが、「不自然」だというのは、古代の倭国には中国人商人がぞろぞろやってきていて、文化的にも言語的にも大きな影響力を誇っていたはずだという、根拠のない妄想が背景にあるからである。

その妄想的背景を受けて、著者はアイデンティティを保つため、記紀万葉集あたり、もともとは漢語の借用だったものを日本の土語に置きかえて、日本語はつくられたとすらのたまっている。

著者の珍説は、ばかばかしすぎてまともに取りあう気が薄れるほどだ。
だいたい、漢字の借用が中心と主張する中で、その土語とやらはどこからやってきたのか?
また、漢文が正当で権威ある文字であり言葉とされていた奈良時代であるが、その時代に純粋培養の和文をつくろうとする動きがあったと、どこに記されているのか? 史料的な根拠はあるのか?
もしもともと漢語が多数借用されていたとして、それが和語に置きかえられたのだとしたら、和文(著者の主張によると漢語からの借用語を和語に置きかえたと想定される文)と漢文書き下し文の文法構造がほとんど同じになるのではないか?(借用語を多用した言葉が元々あるのなら、その言葉をもとに漢文書き下し文をつくるのが自然だろう。) しかし現実は、和文と漢文書き下し文はだいぶ雰囲気が異なっている。

このように著者の珍説は到底受け入れがたく、不自然な点が多すぎる。
以上述べてきたように、記紀歌謡や万葉集で使われている和文の文体は、著者が主張するように和語を強引に使って創りだされた文体ではなく、当時の日本の貴族社会で普通に使われていた文体と解すべきだろう。

○おもしろい視点もあった。
魏志倭人伝の著者は、陳寿であるが、そのパトロンは東国工作(東国への侵略)で活躍した人物だという。そのため、パトロンの偉大さを示すため、東国である朝鮮と日本の国力が誇張されている、という。
おもしろい指摘である。このような指摘をはじめて読んだ。

ただ、この指摘は興味深いものであるが、2点心配なことがある。
一つは類似の指摘をしている本を不勉強ながら読んだことがないこと。学術的に指示されていないトリッキーな意見なのかな?
もう一つは根拠なく妄想を広げる著者の述べていることが信用できない、ということである。合掌。