言語が違えば、世界も違って見えるわけ

超おすすめ!
言語が違えば、世界も違って見えるわけ
ガイ ドイッチャー (著),椋田 直子 (翻訳) 原著2010 インターシフト

内容、出版者ウェブサイトより

<言語が変われば、見る空の色も変わる>
古代ギリシャの色彩(・・なぜホメロスの描く空は青くない?)から、
未開社会の驚くべき空間感覚(・・太陽が東から昇らないところ)、
母語が知覚に影響する脳の仕組みまで(・・脳は言語によって色を補正している)ーー
言語が知覚や思考を変える、鮮やかな実証!

感想

○上記、出版者ウェブサイトには「言語が知覚や思考を変える、鮮やかな実証」と紹介されているが、実際の本書の内容は少し違う。

言語は認知や思考に影響を与えるのか?与えないのか? その両方の仮説を歴史をひもときながら丁寧に紹介し、ある仮説が発想された過程や、その仮説に対する世間の反応、その変化などを追っている。言い換えれば、ある説が学会や社会に受け入れられ広まったり、逆に支持されなくなったり、学者たちがあーだこーだ言いながら真理を追究していく歴史を整理しているのだ。

そして最終的には日本で思われているほど言語は認知に大きな影響を与えてはいないが、少なからずは影響を与えている、といったかたちでまとめうると思う。

○実証の大切さを感じさせられた。

言語が認知に影響を与えるかって、影響を与えるに決まってるじゃん!、それも大きな影響を与えるに決まってるじゃん!、と思う人が多いのではないか。かくいう僕もそうだったし、高校の現代文の評論でも、そのような主張をするものが多い。
何となく考えると、いかにも言語が認知に影響を与えそうだ。現文の評論を読んでいても、うんうんそうだよね、ってうなずきながら読んでいた。でもよく考えれば具体的根拠は示されていなかったのだ・・・

けれども!

本書では、世間の人が思っているほど、言語が知覚に影響を与えるという考えは実験によって棄却されているのだ。
推論上はそうだよねってなることも、実験を重ね、実証することは大切のようだ。

本書を読んでそのことを痛感させられた。

○言語というのは、人を人たらしめている最も重要なものの一つだ。その言語とはいかなるものなのか? 言語は人間の認知に影響を与えるのか? 言語が認知に影響を与えるとするならば、見方を変えれば私たちの認知、ひいて思考は言語に縛られているともいえるわけで、これは穏やかな話ではない。これについて考えることはすなわち、私たちの精神を探求することに繋がるのだ。

本書は古来からの侃々諤々とした仮説の興隆、衰退、議論の流れを追っているわけだが、それは人間の精神を追究しようとしてきた人類の偉大な旅のようにも思えた。著者の案内のもと、本書を通して読者たる私たちはその旅ができるのである。

○言語に関するいろいろな説が興隆する様をみていると、批判的に考える大切さをあらためて痛感させられた。批判的に考えることから種々の説が発生し、真理に向かって議論が進み、仮説は洗練されていく。批判こそ、真理を追究する第一歩なのだ。

○愉快な比喩表現を多用され、おもしろい表現が多い。読んでいて楽しい。
例:「文法を巡る論争はかくして過去数十年間で、まことにめざましい量の紙束を生産しており、世界各地の図書館の書架は重みに耐えかねてそっとため息をついている。」p124

○細かい内容まで言及しており、著者の精緻な仕事に頭が下がる。

メモ

「どの概念にどんなラベルを付与するかは各文化の自由に任せられるが、ラベルの奥にある概念は自然主導で形成される。」p21

(イギリスの政治家グラッドストンは、古代ギリシャの詩人ホメロスの著作における奇妙な色表現を分析し、「色」はもともと明るさを表すものであったことと、染料技術の発達から色とその対象物を切り離して考えることができるようななったことにより色彩知覚能力が向上していったことを主張した。)p53

(色名を獲得していく順番には各文化共通の順序がある。
黒と白 → 赤 → 黄色or緑 → 黄色or緑 → 青)p109
(赤は出血や繁殖を示す重要な色。黄色・緑は草木の色であり、また両者の違いは果実が熟しているか否かを示している。青はその染料をつくるのが非常に難しく、また実質的に活用できない空の色。)p116

(言語による外界の切り分けは、人間の脳の性質や外界の性質の決めた誓約に縛られている一方で、自然があいまいな境界を引く場合は言語は各々さまざまな切り分けを行う。)p120

(さまざまな地方方言が入り交じって頻繁にコミュニケーションが行われる大規模社会では、語形の単純化への圧力が高い)p147

(ロシア系アメリカ人の言語学者ヤーコブソンは、言語間の決定的に重要な違いは話し手に何を表現することを許すかではなく−−どんな言語もあらゆることを表現できるのだから−−話し手にどんな情報を表現することを強いるかにある、と主張した。
例えば、英語は時制を特定することを強いているが、中国語のようにそうでない言語もある。アマゾンの熱帯雨林の一部で使われているマツェス語の場合、過去を三段階に分類し表現すること、そして確証や証拠の程度を表現することを強いている。)p190

(オーストラリアの先住民の一言語であるグーグ・イミディル語は上下左右を南北東西で表現する。そのためその話者は現在過去を問わず、ごく自然に出来事と方角をセットにして記憶している。言語が位置確認能力や記憶パターンにまで影響を与えている。)p216

(ヨーロッパの言語には、無生物に男と女の区別を与えて表現する男性名詞・女性名詞という表現システムがある。男性名詞であるか女性名詞であるかが、認知に影響を与えているのかどうかを確かめる実験によると、男性名詞か女性名詞かで、その物の印象が男性らしい印象と女性らしい印象でわかれることが分かった(同じ対象物でも言語によって男性名詞とするか女性名詞とするかは異なる)。またある対象物に名前を与え、それを暗記させるテストをした際、その対象物の「性別」にあった名前の方が覚えやすい傾向がみられた。不断の刷り込みが連想関係に影響しているか。)p262

(色名の有無が認知に影響を与えているのか比較した実験によると、似たような色の区別を求める実験で色名をもった言語の話者の方が区別が早い。また脳の反応にも色名の有無で違いが生じている。)第9章

「言語が世界をさまざまな概念に切り分けるやり方が、自然によってのみ決定されたのではないこと、および、「自然」だと思っていることの多くは、私たちが育ってきた社会の慣習に依存していた」p289

なるほど、と思った他人の指摘

「shorebird 進化心理学中心の書評など」:「言語が違えば,世界も違って見えるわけ」http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20130424

本書は言語学者ガイ・ドイッチャーによる「言語がヒトの思考に影響を与えているか」という問題,いわゆるサピア=ウォーフ仮説の弱いバージョンについての本である.原題は「Through the Language Glass: Why the World Looks Different in Other Languages」

この問題は,私の理解では,以下のような状況だ.最初「言語こそが思考を構成する」というサピア=ウォーフ仮説の強いバージョンが主張され,一部の哲学者や文化相対主義者たちが飛びついたのだが,数々の証拠から否定された.次に「言語は思考に影響を与えている」という弱いバージョンが主張されるようになった.そしてこれについて様々なリサーチが行われ,論争が繰り広げられ,少なくとも何らかの影響があることはほぼ明らかになった.そしてそれが「重大なもの」かそれとも「とるに足らないもの」*1かが最後のバトルフィールドになっている.本書は前者の立場に立ってそれを一般向けに説明したいという趣旨で書かれている.

ドイッチャーのあげる根拠はソリッドで,確かに言語的慣習は思考に何らかの影響を与えていることは納得できる.でもそれは「重要」と主張できるほどのものだろうかという感想はやはり残る.

ドイッチャーは東西南北の座標系を用いる習慣,能力をさも不思議なことのように強調している.しかし多くの人は絶対座標系と相対座標系の両方を使い分けているのではないだろうか.ちなみに私は市街が東西南北の通りで区切られた地方都市で育ったためか,日常生活で屋内にいても常にどちらが北かを把握しているのが普通だ*10.その二つの座標系をスイッチする閾値*11が少しずれるということがそんなに「重要」なのだろうか?またジェンダーや色名という言語習慣が,ある認知タスクをするときに,よく使う回路の助けを借りられたり干渉したりするために反応がミリセコンドずれるという影響を与えるということがそんなに「重要」なのだろうか?

確かに無意識的に生じる連想が,最終的な判断に影響を与えることはあるだろう.しかしどのような習慣でもある程度の反復的な習慣はそれに特化した脳回路を形成して,無意識的に処理できる領域が増える.するとそれは別の隣接領域の認知タスクを補助したり干渉したりして処理時間に影響を与えるだろう.だから本書を読む限り,ここで主張されている母語影響はごくふつうの習慣の与える影響(たとえばよくゴルフとする人と野球をする人の違い,ミステリーをよく読む人と恋愛小説をよく読む人の違い,ガラケーを使う人とスマホを使う人の違い,そして碁盤目状の市街地区で育ったかそうでないかの違い)と何か質的,量的に異なるとは思えない.だから私にはドイッチャーは「あらゆる習慣は思考に重大な影響を与え,それは言語についても当てはまる」と言っているだけのように思われるし,それは結局ピンカーのいう「とるに足らない影響」と単に主観的な表現の差にすぎないように思われる.