日本語のレトリック 文章表現の技法

日本語のレトリック 文章表現の技法
瀬戸 賢一 2002 岩波

内容、背表紙より

「人生は旅だ」「筆をとる」「負けるが勝ち」「一日千秋の思い」…。ちょっとした言い回しやたくみな文章表現で、読む者に強い印象を与えるレトリック。そのなかから隠喩や換喩、パロディーなど30を取り上げる。清少納言夏目漱石から井上ひさし宮部みゆきまで、さまざまな小説や随筆、詩を味わいながら、日本語の豊かな文章表現を学ぶ。

感想

レトリックの役割について、「レトリックとは、あらゆる話題に対して魅力的なことばで人を説得する技術体系である」と説く。
自分の思いや言いたいことをできるだけ正確に、そして相手にしっかりと印象づけて伝えるためにレトリックは重要であるというのである。
そうしてレトリックの重要性を意識させたうえで、隠喩や反復、逆説など、30の項目をたてて、それぞれの修辞の役割や効果を解説した本。

実例が豊富で勉強になった。実例をみていると、レトリックの重要性を実感させられる。

○レトリックは相手を説得したり言いたいことをわかりやすく伝えるための技法というだけではない。レトリックは認識そのもの。ひいては世界そのものといってもよい。

人間というのは世界をありのまま受容することはできない。限られた感覚器官を使って限られた刺激を受容する他ない。そしてその刺激をどう受容するかというのも人間の神経系の論理に従って一定の決まりがある。沸騰したお湯を「熱い」と思ったり、差別的な待遇をされたら怒りを覚えたりね。それどころか、人間という身体の上にさらに、民族という縛りがある。文化という縛りがある。個人的性格や経験に基づく縛りもある。

そういう種々の縛りのなかで私たちは世界を認識する。そこであるレトリックがたち表れてきたならば、そのレトリックというのは認識そのものといえるだろう。そういうふうに世界をみたということだ。

そして私たちが世界をありのままに受容できず各種の限界や本能、恣意的な文化などによって、ある種の「歪んだ見方」しかできないという事実をふまえるならば、ある世界を認識したとして、そこでレトリックというものがたち表れてきたのならば、そのレトリックはその世界そのものなのである。「歪んだ見方」しかできない以上、それは「歪んだ見方」ではなく、個人の中でまったきものとなるからだ。

例えば本書の撞着法の説明では、夏目漱石『こころ』の例が示されていた。僕も大好きな一文である。語り手「私」が親友のKを裏切り、そのKが自殺したのをみたときに思ったことだ。
「もう取り返しが付かないという黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たわる全生涯をものすごく照らしました。」
この一文を読んだら最後、語り手「私」の後悔を表現するのに「黒い光が、私の未来を貫いて」ほど適切なものはないことは一目瞭然だろう。たんに「悔いる」では、Kの自殺が「私」のその後の人生を一瞬で束縛したこと、己が己を後悔のまなざしで糾弾していることまでは表現しきれない。
この撞着法というか比喩表現は、ときの「私」の内面を極めて的確に捉えているとともに、それ自体なのである。それ以外に表現することはできないし、それ以外のなにものでもないのである。
自分の思いや言いたいことを正確に印象づけて伝えるためにレトリックは重要であるということ、そしてレトリックが単なる技法にとどまらず認識そのものであるということ。この2点がよくわかる例文だ。


私も、できるだけ印象深く正確に思いが伝わるように、また自分の世界認識を豊かに広げられるように、文章表現・レトリックによく工夫しながらもの書きしたい、と読後に思う本だった。