レトリック感覚

レトリック感覚
佐藤 信夫 1992 講談社

内容、背表紙より

アリストテレスによって弁論術・詩学として集大成され、近代ヨーロッパに受け継がれたレトリックは、言語に説得効果と美的効果を与えようという技術体系であった。著者は、さまざまの具体例によって、日本人の立場で在来の修辞学に検討を加え、「ことばのあや」とも呼ばれるレトリックに、新しい創造的認識のメカニズムを探り当てた。日本人の言語感覚を活性化して、発見的思考への視点をひらく好著。

感想

種々のレトリックについて論じた本。

基本的なことを述べており、あまり知的興奮は味わえなかった。常識的なことに終始している。
ただ、隠喩についての論究が勉強になったのでメモしておきたい。すなわち、

(隠喩は、謎解きに似ている。読者はどのような印象(イメージ)を伝えようと喩えたのか、その解法を見つけることになる。例えば、〈彼は職務を行うにあたっては、ライオンだった〉なら、勇士のイメージを喩えたことになる。これはほとんど無自覚の一瞬のゲーム。しかし確かに読者はそこに参加している。)p110

著者は隠喩のことを以上のように指摘しているが、これは程度は下がるとはいえ、直喩でもいえることだろう。

メモ

「本当は、人を言い負かすためだけではなく、ことばを飾るためでもなく、私たちの認識をできるだけありのままに表現するためにこそレトリックの技術が必要だったのに。」p26

なるほどと思ったネット上の記事

【わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
:『レトリック感覚』と『レトリック認識』はスゴ本】
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2012/12/post-1717.html

「 「思ったこと」をいくら言い表そうとしても、その外皮を削るどころか、近似の誤差すら縮まらない。ことばは外的な制約にすぎず、「思ったこと」専用にあつらえたものでないから。さらに、専用にあつらえた完全オリジナルであるなら、それはコミュニケートの道具として使えない。誰も知らないだろうからね。

 そういうとき、ふと、ほとんど偶然のように適切な言い方を思いつき、ほっとすることがある。これこそ自分だけのことばだ、と感じるだろう。しかしそれは、自分の「思い」に合わせてこしらえたものではない。私以前に、無数の他者たちが用いてきた、数え切れない用語の蓄積を担ったレトリックなのだ。」