「なぜ 花はいつも」

なぜ花はいつも
こたえの形をしているのだろう
なぜ問いばかり
天からふり注ぐのだろう

             岸田衿子『あかるい日の歌』、1979

この詩は実に不思議だ。

「花」は「こたえの形」をしているという。
そして「問い」が「天からふり注ぐ」のだという。

よく聞く話がある。それは、「答え」を見つけるのと同等かそれ以上に、「問い」を掘りおこすことが大切だということ。
その「問い」が、人間性の深淵に触れるような問いだったり、社会をより良くするような問いだったらなお良いだろう。
僕はそもそも、「問い」をもつこと自体が、人間らしく生きることだと考えている。
環境や社会を、ただ受容するだけでは人間的とはいえない。
そこに疑問をもったり、疑惑の目を向けたり、欲望を抱いたり、よりより高みを希求したり。
すなわち、社会に「問い」を投げかけてこそ人間だと思うのだ。
そしてどんな「問い」をもつかが、数少ない個を規定しうるオリジナリティだと思うのだ。

引用した詩は、「問い」が天から降ってくるのだという。
はたしてこの「問い」はいかなるものなのか?
空から降ってくるものといえば雨や雪。
これらは私達にはどうしようもない。どうしようもなくただ降ってくる。
この「問い」も同じではないか。
生きている。それだけで否応なしに降ってくる。わきあがってくる。
   社会はいかにあるべきか? 組織は以下にあるべきか?
   人はいかに生きるべきか? 自分はいかに生きるべきか?
   人間とは何か? 「私」とは何か?
   命とは? 幸福とは? 希望とは?
   自分の存在意義とは?


生きているだけでわきあがってくる「問い」。天からしんしんとふり注いでくる「問い」。この「問い」は、おそらく人間とか、人生とか、私とか、そういう生の根源に触れるような問いのはずだ。
私たちはこういう曖昧模糊とした「問い」を抱え、それでも前に進むほかない。先祖もこうやって生き、そして死んだ。
自分もそうだ。
後世に生きる人もきっとそうに違いないのだ。


この詩に話を戻すと、「こたえ」は花の形をしているという。
実に不思議だ。
なぜなら、天からふり注ぐ問いは、そもそも答えのでようもないもので、しかもそれが「花」という美しい形をしているというのだ。
人間性をつきつめるような問いに答えがでないのはもちろん、もし仮に答えらしきものに近づいたとしても、それはきっとどうしようもなくどろくさくて、そしてむなしいものではないのか。

なぜそんな、いつまでたっても満たされることのない盃のような「こたえ」が花の形をしているというのだろうか。

おっと、「こたえ」が花のように美しいとまではいいきれない。正確にいうと、語り手がそう思ったのだ。

それならば正確いおう。

なぜ語り手は、生きているだけでわきあがってくる生の根源に触れるような「問い」の「こたえ」が、花のように美しく見えたのか?

いやそもそも、以下のような疑問を抱くべきだ。
美しく見えたその「こたえ」とは、「私」の「こたえ」か?
それとも社会が「私」に押し付けてくる「こたえ」か?

おそらく後者だろう。なぜなら自分でこたえを得、納得した人に、なお問いが降ってくるとは思えないからである。


そうだ、僕はこの詩にこう問いたいのだ。
なぜあなたは、社会で喧伝されている、生の根源に触れるような「問い」の「こたえ」が美しく見えたのですか?
喧しい「善」に、欺瞞を感じているのですか?
それとも「善」を受け入れてなお、承服しきれていない自分を見定めようとしているのですか?


この詩は絵になる良い詩だ。
多様な読みを内包しているところもいい。

「問い」が「天からふり注ぐ」という。
僕はこの詩が、社会が提示する「善」すら問うていると解釈した。

人は、問うて悩んで生きていく。
それこそが「人間として生きること」だ。

この詩は、人間として生きることそのものを、語り手の葛藤と天と地による空間的広がりに重ねながら読んだ歌だと思うのだ。