漢字が日本語をほろぼす

漢字が日本語をほろぼす
田中克彦 2011 角川

内容、背表紙より

漢字があるから、日本語はすばらしい!そう考える日本人は多いだろう。しかし漢字が、日本語を閉じた言語(外国人にとって学びにくい言語)にしているという事実を、私たちはもっと自覚しなければいけない。日本語には、ひらがな、カタカナ、そしてローマ字という表記方法があるのだから、グローバル時代の21世紀には、もっと漢字を減らし、外国人にとって学びやすい、開かれた言語に変わるべきなのだ。いまこそ、日本語を革命するときである。 

メモ

今の日本語をほめたたえている人は、漢字を全く知らない外国人に日本語を教えてみればいい p3

「世界じゅうのどんなことばも、今では外国人の参加なしには生きのびられない」p16

医学用語がこんなにむつかしくなっているのは(日常で使わない言葉、漢字、読み)、たぶん医術の秘技性をまもり、医者と患者の間の距離をひろげるためだったのだろう。例、「耳鼻咽喉科」、「蛋白質」、「小児科」、「分娩」 p25 学者や政治家、官僚による知識の独占、特権的利益を守るためのくだらない防壁
「風とおしの悪いせせっこましい言語には、本当は実力のないもの書きたちを守るとための防壁になるという機能がある」p30
やたら難しい漢字は、開かれた知識に文字のたがをはめつけ権威にしたことによって、人民を知識から遠ざけ、人の精神をヒクツにし、屈辱的にさせる以外に大きな効果はない p85

「自閉型の言語」→学びにくく他者をよせつけない
「発展(解放)型の言語」→容易に学べ、他者に外に向かって開かれている p31
※著者は日本語は「自閉型の言語」という、確かに、漢字は多く、やたら専門的な言葉づかいも多い、虚飾の言葉も多い、外国人には学びにくいという点ではそうだろう。しかし、日本人は日本語は、外国語を取り入れること、これ積極果敢でむしろみさかいがないくらいであり、「自閉型」というには違うと思う。

母語が、ある言語で−例えば日本語で−生まれるということは、のちのち変えるのに相当の困難をようするという点で、その影響が大変大きいという点で運命である。よって基本的人権の一部として尊重されなければという原理が引き出される。 p53

漢字のマイナス点
漢字は日本語に本来存在する語原的なつながりを見えなくしてしまう。p95 例、「t て、たなごころ、とる」 「m め、まなこ、まもる、みる」 「tum つめ、つまむ、つむ」

感想

○漢字のデメリットを主張する。そして、専門用語に難しい漢字を使った日常使わない言葉を使うな、なんでんかんでん漢字で書くな、漢字を禁止した朝鮮を参考にしろ、簡体字を生み出し採用した中華人民共和国を参考にしろ、といったことを主張する。

しかし氏の主張いまいちはっきりしない。はっきり明言していないのは、本書の悪い点だ。漢字を減らしたいの? 減らすとすればどのくらい? いや、禁止しちゃうの? 禁止したあとは全部ひらがな? 和語と漢語の割合は今のままでいいの?などなど。
つまり本書には、漢字を減らす、ないし簡略化した先に見える日本語のかたちがぜんぜん分からんのである。


氏は、漢字を減らせ、と主張している。このような主張には前々から私も大賛成だった。というより、明治維新を迎え、国民国家公用語としての日本語が「開発された」が、はっきり言って漢字廃止論(減少論)は、その際の議論の焼き直しである。
参考→『「国語」という思想 近代日本の言語認識』http://d.hatena.ne.jp/skycommu/20100506/1273147686
もっとも、自分の支持する主張が広まっていなければ、何度でも主張を繰り返すべきだろう。そして、入試問題によく採用される田中克彦氏が、漢字の弊害を主張していることをやはり心強く感じる。
また、勉強になった部分も多かった。特に、「自閉型の言語」と「発展(解放)型の言語」という考えは、そのネーミングの強烈さもあり、大変有用なアイデアだと思った。


○以下、本書の弱点と私見を述べる。
本書の弱点ついて。
漢字にメリットを感じる人は多い。漢字のデメリットを説き、その利用の減少を主張すれば、反論がくることは容易に想像できる。それに対する再反論がきちんと必要だろう。本書にはまともな再反論がない。
想定される反論。まず、漢字には明確なメリットがあるということだ。
なによりその読みやすさ。漢字はその文の軸になるような単語に使われ、助詞、助動詞を中心としたひらがなに囲まれ、パッと目に入る。ひらがなから浮かび上がった機軸となる単語がゴイゴイ目に入ってくる。使いすぎは逆効果だが、適度な利用は文の読みやすさを促進することを否定できないだろう。
この反論に対する再反論は難しい。「適度な利用」であれば、読みやすくなることは事実だからだ。

私は、ようはこの「適度な利用」の水準の問題と、それを強制するか否かの問題だと思う。

水準については、今の常用漢字の半分くらいでいいと思う。現在の常用漢字は多すぎる。もっと減らしても良い。

また、強制に関しては、学校教育と行政文書に関しては、国が定めた漢字以外を使うことを禁止すべきだ。今、常用漢字は国の定めた目安だが、これを基準にするのだ。民間や個人における漢字の利用については国が関与すべきではないと思うが、日本語のあり方を考えた上で、基準としての常用漢字を、数を減らして定めれば、自ずと民間での無節操な漢字の利用も減るだろう。

同時に、虚飾のためだけの無分別な漢語の利用も減らしていくべきだ。和語でいいじゃん。まあ僕も、(めんどくさい日本語はダメだ、中身で勝負しよう)といいつつ「虚飾」なんて言葉を使っちゃうんだけど。

その他、以下のような、漢字のメリットというか、大和言葉の弱点を指摘している人がいた。

ヤマト言葉には近代文明の概念の中心となる抽象的な概念を表現する言葉がほとんどないにょ。それ以外の言葉も、魚の名前みたいなのを例外にすれば、長く漢語を使ってきた経緯から、同じ範疇の言葉でもより高度な概念を表す言葉が存在しないにょ。そういうものは今までずっと漢語で表現して来たのが日本語だにょ。
 したがって、それらの漢語を廃止するなら、それに代わるヤマト言葉をすべて新しく作らないといけないにょ。基本的な概念を古来のヤマト言葉をベースにして、その上により高度なヤマト言葉を作っていくにしても、ヤマト言葉自体がかなり原始的な構造の言葉だから、複雑な概念を基本的な語幹の組合せで作っていくとかしたら、おそらく凄く長い単語がゾロゾロと作られることになるにょ。従来の漢語なら文字にして2文字、発音しても4音程度の単語だとしても、ヤマト言葉にしたら平気で20文字ぐらいになってしまうだろうにょ。

 思うに日本語で用いられている漢語の最大の機能は、単語の短縮化だにょ。ヤマト言葉で表せば煩雑でだらだらと長いものになってしまうのを漢語を使うことでコンパクトに収め、近代言語としての日本語をスマートにまとめているにょ。
 もっとも、それがためにしばしば同音異義語という問題が起こり、話し言葉ではその都度言い変えや説明を余儀なくされるわけだけど、著者にとってはそれが一番みっともない部分だそうだから、煩雑なヤマト言葉が多用されることで会話の時間や文章の文字数がどれだけ延びても構わないということかもしれないけど、少なくとも近代言語としては甚だしく非効率なものになってしまうにょ。

http://asuka-diary.at.webry.info/201110/article_3.html


他に想定される反論。
それは漢字を覚えるのは確かに大変かも知れないが、それは単語を覚えるのと同じではないかということだ。
例えば、私たちは「机」、「鉛筆」、「紙」などという漢字を覚えなければない。しかしそれは英語でいえば、「desk」、「pencil」、「paper」などといった単語の綴りを覚えるのと一緒ではないかということだ。
この反論に対する再反論は不可能ではない。英語の場合は「音」と「字」がほとんど同じなので、この二つをほとんど同じ一つのものとして覚えればよい。しかし漢字の場合は「字」を覚えたとして、その読みは推測しがたい(「推」や「測」といった形声文字は別だが)。しかも、日本語の場合は訓読みまで覚えないといけないし、漢語と日本語は全く別系統なので、意味と音の対応関係も、いっちゃあ、ランダムみたいなもんだ。覚えるのがすごく大変である。なのでやっぱり、国民国家公用語、日本語における漢字は減らすべきだと思う。

○やたら漢字をつかったり、難しい言葉を使う文章は概して中身が薄い、という指摘には大賛成。中身の薄さを言葉の彩でごまかしているのだ。簡単な言葉になおしていったら、カスみたいな中身の文章は実に多い。

○「ある言語は、それに参加する人が多ければ多いほど、またその人たちの職業や経験が多様であればあるほど、その言語のためには利益になる」p31
いや、豊かになるといった方がよい。人口も減り、経済的にもダメになっていく日本にあっては、マジで、外国人が手軽に学んでくれる言語のあり方を考えた方がいい。もちろん、そのために、今の日本語をやたらめったら変えろとは言わないが、そういう方向性も真剣に必要だと思う。著者も言ってるが、日本人も大切だけど、日本人話者も大切だと考える。

○日本語と、ウラルアルタイ語族とのニュアンスの共通性についても述べる。
例えば、身体や動物に対し[持つ]ではなく、[ある]をつかったり、[カタ]とという概念があるなど。