教師のための読書の技術 思考量を増やす読み方

教師のための読書の技術 思考量を増やす読み方
香西 秀信 2006 明治図書出版

おすすめ!

内容(「MARC」データベースより)

国語教師を対象に、自分の文章力を向上させるために、いかに既製の書物を利用するかという、「書くための読書術」を紹介する。『教育科学 国語教育』に連載した「読書指導の改革」をもとに書籍化。

感想

 他人の文の組み立て方、ものの考え方を学ぼう、集めよう。
 それを真似し、他の問題に転用し、自分で文を書き、論理を組み立てよう。
ってなことを主張している。
 全面的に賛成。

 まあ、上に書いた程度のことはあたりかもしれない。しかし本書の強みは、他人の発想・思考を、別の文脈で自分の議論に転用した例をいくつかあげていることだ。「どのような思考法が、どのように転用できるか?」という問題が、具体例をもとに実践的に学べるのである。
 正論を読むのもいいが、こういう具体例をいくつか読むほうが、より参考となる。自分が他人の発想・思考を転用するときのヒントになる。

     本書で紹介され転用される思考の例
○ある出来事が書かれたということは、そういう出来事が存在したことを示すとともに、他方では、それがまさに書かれるに値する非日常的な出来事であったことをも示す。
○自由で主体的な立場にある者は、関係に拘束されていないので、不利益をこうむりそうになったら逃げることができる。そのことによって関係内部を改善しようという発想は生まれない。
一方、拘束されているものは逃げることができないので、関係内部をよりよいものに変えていこうとする能動的な態度をとる。主体的な選択をなしえない従属的な立場が、皮肉にも強力な現実改革のエネルギーを生み出す。

 皮肉っぽい文体もすごくいい。ツボにはまる。ぜひ下のメモの欄を見て、こそくりわろうてほしい。

 著者はいう。「「書く人」になるには、それなりの覚悟をもたなくてはならない。洒落ではないが、「書く」とは、何もしなければかかなくてもよかった恥をかくかもしれないということである」p19
 そうだ。そうなのだ。「山月記」の李徴ではないけれど、私たちはときにその臆病な羞恥心に逃げ込みたい。しかし、尊大な自尊心じゃちょいまずいけれど、誇りをもって、自分の考え方を世に問うてもみたい。
 そうするにはどうすればいいか?

 それには、本を読み、発想法・思考法を学び、転用していくしかない。少しでも新たな認識を拓き言葉を紡いでいくしかない。書いたものに対する反論や意見から学んでいくしかない。
 そう、私たちはかくあるべきだ。かくあるべきなのだ。
そんな価値観を共有する、知と真理にあこがれるみなさんに是非読んでもらいたい本。

メモ

「最初から、表現に役立てる目的で読まなければ、役立つほどの表現など読み取れはしない。」p24

「われわれはまず、言葉を、言語技術を先行させることから始めるべきである。」p33

「もしわれわれが豊富な言葉のストックをもたなければ、われわれは豊富な思考をもつこともできない。(ry)例えば、自分の不快な感情を表現するのに「むかつく」という言葉しか持っていない子供は、複雑な感情を単純な言葉でしか表現できないのではない。「むかつく」という感情しかもてないのである。複雑で微妙な表現のできない人間に、複雑で微妙な思考も感情もありはしない。」p40

「私が「私」としてものを考える限り、そこで到達できることは、「私」の発想・知識の枠を超えられるものではない。ものを考えるとき、「私」は、私の可能性を狭く閉じ込める限界として作用する。私の頭の悪さが、自由にものを考えることを妨げるのだ。したがって、私は、書き方のときと同じく、他人のさまざまな優れた考え方を収集し、情報として蓄積し、それを別の場面で自らの思考として転用しようとする。私が、「頭の不自由な人」である状態から抜け出るためには、たぶんこれ以外の方法はない。」p63

「揚げ足取りは私の人生最大の娯楽の一つである。」「結局のところ、揚げ足を取られた人が、「他人の揚げ足ばかり取るな」と喚くのは「俺の誤りをあげつらうな」と言っているにすぎない。」p100

「私が平気で詭弁を研究したり、他人の揚げ足を取ることに興じたりできるのは、それによって相手をどうこうしようという気がまったくないからである。逆に、議論の教育を警戒し、それに眉をひそめる国語教師は、自分の中に、他人の議論で打ち負かすことに快感を感じる卑しい精神のあることを、問わず語りに白状しているのである。」p103

「理論整然とした、幾何学の証明のような正確な論証よりも、「よくこんな馬鹿なことを考えたな」とあきれるような屁理屈のほうが、むしろ論理としての美しさを感じさせるのである。」p140