寝ながら学べる構造主義

寝ながら学べる構造主義
内田樹 2002 文藝春秋

内容、出版社ウェブサイトより

構造主義現代思想の代表みたいにいわれるけれど、一体どんな思想なんだろう。そう思って解説書を手にとれば、そこには超難解な言い回しや論理の山。ああ、やっぱり現代思想は難しい……。そんな挫折を味わった方はぜひ本書を。フーコー、バルト、レヴィ=ストロースラカンといった構造主義の主唱者たちは、要するに何が言いたかったのか、「思想の整体師」の異名をもつ著者が、噛んで含めるように説き明かします。「そうか、そうだったのか」の連続となること必定です。

感想

おもしろいこともいっぱい書いてるんだけど、その一方でいい加減な推論やこじつけが多く、いろいろとつっこみたくなる。いやこれが実に多いんだ。
著者のウェブサイトをときどき読むのだが、思い込みや乱暴な推論が多いのはこれまた同じ。

なんでこんなに世で評価されているんだろう?

おもしろいな、と思った点は下にメモしたい。

メモ

「よい入門書は、まず最初に、「私たちは何を知らないのか」を問います」p9

「知性がみずからに課すいちばん大切な仕事は、実は、「答えを出すこと」ではなく、「重要な問の下にアンダーラインを引くこと」」p11

「「私たちはつねにイデオロギーが『常識』として支配している、『偏見の時代』を生きている」という発想法そのものが、構造主義がもたらした、もっとも重要な「切り口」」p19

「私たちはつねにある時代、ある地域、ある社会集団に属しており、その条件が私たちのものの見方、感じ方、考え方を基本的なところで決定している。だから、私たちは自分が思っているほど、自由に、あるいは主体的にものを見ているわけではない。」p25

(存在そのものではなく、行動によってネットワークの中に作り出した価値や意味が何者であるかを決定する、とマルクスは主張した)p32

(私たちは抑圧によってすべての感情、心的過程が意識にのぼらないため、どのような意識活動が行われているか、完全に知ることはできない。はっきりとした意識の上で自由に考えたり行動したり欲望したりしているわけではない、とフロイトは主張した)p39

(他人と同じように振る舞うことを最優先にする「大衆社会」を、ニーチェは危惧し批判した。)p51

「ある観念があらかじめ存在し、それに名前がつくのではなく、名前がつくことで、ある観念が私たちの思考の中に存在するようになる」p67

「私がことばを語っているときにことばを語っているのは、厳密に言えば、「私」そのものではありません。それは、私が習得した言語規則であり、私が身につけた語彙であり、私が聞き慣れた言い回しであり、私がさきほど読んだ本の一部です。」p73

(私が確信をもって他人に意見を陳述している場合、それは「私自身が誰かから聞かされたこと」と思って間違いない。文章は最後までできてるし、テンポや力のいれどころも知れているし、自分が納得したことだから安心して話ができる。一方、純粋オリジナル、できたてほやほや無垢の「私の意見」はたいてい、同じ話が循環し、矛盾し、主語が途中で変わるなど、「話している本人も、自分が何を言っているのかよく分かっていない」ような困った文章になる)p73
→確かにそうだと納得された。相手がわけわかんないこと言ってても我慢して聴かなきゃなあ。だってそれこそが、そのときこそが、その人オリジナルの意見が生まれそうなときなのだから。
(絞り出されたオリジナルな意見だけでなく、何に納得するかというのもその人の個性ではあるけれどね。)

「知と権力は近代において人間の「標準化」という方向をめざしてきた、というのがフーコーの基本的な考え方」p92

「人々が独裁者を恐れるのは、彼が「権力を持っているから」ではありません。そうではなく、「権力をどのような基準で行使するのか予測できないから」なのです。廷臣たちのうち誰が次に寵を失って死刑になるか、それが誰にも予測できないときに権力者は真に畏怖されます。」p192