大学生の論文執筆法

大学生の論文執筆法
石原千秋 2006 筑摩書房


【カヴァー折口より】
大学生にとって、論文を書くとはどういうことか。誰のために書くのか。何のために書くのか。大学での授業の受け方や大学院レベルでの研究報告書の作法、社会に出てからの書き方まで、論文執筆の秘伝を公開する。かつて流行った決め言葉の歴史や、カルチュラル・スタディーズが隆盛となったここ最近の学問の流れをも視野に入れた、実用書でもあり、読み物でもある新しい論文入門。


【琴線に触れた文】
「余った時間を携帯や合コンなどの遊びにすべて使うような学生は、今すぐ大学を辞めなさい。大学はそんなバカどものためにあるのではない。大学の偏差値は大学や社会での実力を保証するものではなく、可能性を示すものにすぎない。必死に勉強しない限り、可能性は開花しない。つまり、まともな学生にはなれない。まともな文科系の学生なら、余った時間は図書館と本屋に行くものだ。そして、昼飯代を節約してでも本を買うものだ。」p20


→言い過ぎている感はあるが、かねがね同意する。願わくば、大学生の数を大幅に減らしてほしい、私はいつも思う。独りよがりな意見だけど、学生であっても他人に知的興奮を与えられないような人は大学にいらない。


「論文は研究史との対話から生まれるものだが、自分の論文が何に対して意味を持つのかをはっきり自覚しておかなけらばならない(後略)。(中略)いま自分はどういう枠組の中で論じているのかを自覚していないととんでもないことになる」p71


「(大型書店について)広い売り場面積は、書店の哲学を表現する空間でもあるのだ。」p111


「徹底して線を引き続け、いくつもの二項対立を組み合わせて論文を構成すること。(中略)一つのことを水準を変えて説明すると論に厚みが出ること」p192


→二項対立を組み合わせて論を構成するとは、「私と公」、「見せる私と見られる私」、「意識と無意識」のような対概念を発見し新しく構築し(筆者はこれを「線を引く」と呼んでいる)、それぞれの概念をはっきりさせ追及することだと筆者は主張している。
対立項がないと学問は鍛えられないとも。
二文目について。水準を変える例としては、「空間」から論じていたことを「時間」からも論じてみせることなどがあった。


【雑感】
本書は、もう大学を卒業されたO先輩推薦の本ということで読んでみた。もっとも、期待はずれだった感は否めない。読みやすくてごいごい読めるのと論文を書く上での前提・心構えが分かるのは良い点なのだが、いかんせん全体的に中身が薄い。第二部において、他人の論文を引っ張り出して二項対立の視点を中心に解説を加えているのだが、専門でないものへの言及は中身の薄さを感じた。専門である文学の論文だけを利用すればよかったのに。


筆者はテクスト論を強く信望している。テクスト論とは作家と作品を切り離し、作品の細部を丁寧に読むことで、テクストに対する新たな読みを提出しようとする手法だ(あんまりつっこまないで!いや、僕の不勉強をつっこんで!)。テクスト論は作家を無視したり、読者がどう読めるかということを重視することになる。


私も基本的にテクスト論が好きだ。20年くらい前の論文だと語り手と作家をきちんとわけていない論がまだまだあったりして辟易することも多い。しかし、最近ではテクスト論だけでは小説の神髄に迫るのには限界があるように思えてきた。やはり、作家を勉強し研究しなければいけないのではないか。そして、その成果を少しはおり込むべきではないか。あるいは踏まえるべきではないか。それが、今の私の考えである。


文学の論文には小説の神髄に迫る論と迫らない論があるように思う。実をいうとどっちがよいとかいうもんでもないと思っている。研究してみた結果、小説の神髄に迫るものだった、いや迫るものではなかった、そんなところだろう。○○に着目して攻めてみたけれど、いまいち小説の神髄に迫るものではなかった。それはそれでよいと思う。


けれども、僕は今年、近代文学卒業論文を書くわけで、人生初の論文を書くわけだから、せっかくなら小説の神髄に迫る論文を書きたい、と思ってるんだ。


なお、本書にはどうしても言いたい疑義があったので指摘したい。


本書は、途中で前田愛の「無意識の棲まう場所」という論文を紹介している。その中で、「この論文はユング心理学の枠組を採用する限りにおいて、この論文は論理的なのである」p185、例えばユング心理学の枠組を採用すると論理的に読めない、と解説している。
そして、「文科系の論理は一つではないのだ。だから、文科系ではできるだけたくさんのルール(枠文)を知っておく必要がある。枠組のレパートリーを増やす必要があるということだ。そうでないと、相手がなぜそれを論理的と考えているかが理解できないことが、しばしば起きるからである。」p186と主張している。


ちなみにユング心理学フロイト心理学についてskycommuは詳しくないのだが、本書に準拠してそれぞれ超簡単に説明すると以下のようになる。


フロイト心理学
「無意識を「欲望」と読み替える」p184


ユング心理学
「無意識を無限のエネルギーの貯蔵庫のようなものだと考えている。だから、無意識に触れることが「真の休息」になるのである。」p184


さて、著者はいろいろな枠組を勉強すべきといっているわけだ。賛成する。
しかし、なぜ、著者はそれにとどまっていることを批判しないのだろうか?
例えば、フロイト心理学とユング心理学という枠組は全然違う。同じように無意識について言及しているにもかかわらず、そのとらえ方は大きく違う。なぜどちらが正しいか、戦わせることを主張しないのだろうか?
そうやってできるだけ正しい枠組を絞っていくのが学問ではないのか?


だいたい、私はフロイト心理学もユング心理学もまるっきり信じられない。私は、無意識と意識を完全に全く分離できないと考えているからだ。だいたいどちらも非科学的すぎる。フロイトなんてただの妄想じゃないか。


まあいいや。とかく、ユング心理学フロイト心理学はいくつかの部分で対立する考え方なのであって、そのどちらも受容するということは、僕にとっては地動説と天動説どちらも信じるに等しい。そして著者は、どちらもしっかり勉強し、相手が採用している枠組に応じて、読む側も枠組を変えろというのだ。
こんなバカな話があるか。「はいはい、こういう考え方やこういう考え方があるんだよー」ってのは単なる思考停止。学問は宗教じゃないんだから。
いくつもの枠組を学んだ上で、正しいらしい枠組を絞っていくべきだ。


だいたい、フロイト心理学、ユング心理学とかいう、同じことに関して大きく対立する考え方がまだ残っているのがおかしい。学者の怠慢じゃないのか。
どちらにも、真らしい部分があるのなら、そろそろ取捨選択し統合してもよい時期だろう。


いろいろな考え方ができること、いろいろな見方ができること、いろいろな枠組があることは、悲しいくらい空しいくらい理解しているつもりだ。
けれども、それを「理解」するのとそれに「安住」するのは違う。学問をするのなら、「理解」という御旗の下でのほほんと「安住」すべきではない。個々の頭で考え、データを集め、そして討論をし、正しいらしい枠組へと絞っていくべきだろう。


《20080506の記事》