純文学と大衆文学の違いについての覚え書き
バイト先の職員が、「純文学と大衆文学の違いって何だろうね?」と僕に話をふってきた。その上司は歴史小説をもうそれはもう、ものすごく読む方で、浅田次郎などが好きらしい。
浅田次郎や司馬遼太郎の作品は一般に大衆文学に分類される。「純」文学と「大衆」文学。上司はそういう区分けが不満らしい。そしていったい何が違うのか、ラベリングする必要があるのか、疑問に思ったのだと言う。
純文学と大衆文学の違いとは何だろうか?
私はたくさん小説を読む方ではないが、日本文学を研究する学部に所属しているので、それなりの量の純文学を読んできたつもりだ。
大衆文学も人並みに読んできた。
wikiでちょっと確認してみよう。
純文学
→純文学(じゅんぶんがく)とは、大衆小説、あるいは小説一般に対して、商業性よりも「芸術性」・「形式」に重きを置いていると見られる小説の総称とされる。
大衆文学
→大衆小説(たいしゅうしょうせつ)とは、純文学に対して、芸術性よりも娯楽性・商業性を重んじる小説の総称である。「娯楽小説」「娯楽文学」「大衆文学」は同義語。「通俗小説」「通俗文学」とも呼ばれた。
私は純文学と大衆文学には違いがあると思う。
私にとって一番大きな両者の違いは、純文学には人の心の揺れ、人の心の悩み、人間の愚かさなどが描かれていて、大衆文学はそうではないということだ。
また、純文学の登場人物は、捉え難さがある。一言では表現しきれない、人間の複雑さ微妙さがある。一方、大衆小説の登場人物は、物語を進めるために、恣意的な性格設定がなされているように思えてならない。
やさしい人はやさしく、
いい人はよく、
悪い人は悪く
さびしがりやはさびしがりやに、
いじわるな人はいじわるに、
泣き虫は泣き虫に。
人間てそんな単純なもんじゃないんだけど、大衆小説は、人間というかキャラクターを、わかりやすく、画一的に、単純に、薄っぺらく、描いているように思えてならない。
もっとも、これはあくまでその「傾向」があるということである。人の心の揺れ、人の心の悩み、人間の愚かさなどを描いていない大衆小説が全くないとは言わない。純文学と大衆小説の分け目があいまいになりつつあると、wikiにもある。
また、僕は、純文学と大衆小説、それぞれに上記のような「傾向」があるとして、その優劣をいっているわけではない。さらにいえば、「人間を単純に描くこと」の優劣をここで言ってるわけでもない。その話をし出すと議論がややこしくなるし、そんなこと簡単には言えないから。
とかく今のところ、掲載雑誌や、SF・歴史小説といった作品形式で、純文学と大衆文学の区別がされているのだろう。
もう一つ、純文学小説には、大衆小説にはない楽しみ方がある。それは学者の書いた論文がある場合が多く、それを読めること。夏目漱石なんかの論文はそりゃもう気持ち悪いくらいに膨大にある。カオスだw
小説を読んだ後、そんな論文を読むと、なかなか楽しい。
自分が気づかなかったような新たな読みや発見、解釈を教えてくれる。そういう過程で自分も新たな読みに気づくことが多い。
それが大衆文学には少ない純文学特有のおもしろさだと思う。
純文学と大衆小説を別ける意味があるのかと問われれば、僕には分からない。それぞれ一長一短があるように思う。ただ僕は、間違いなく、幼稚な本と芸術性を意図した本があると思う。この違いは認められると思う。それぞれにラベルが貼ってあった方が何かと読者は便利だ。それにそういうラベル自体、作家がもとめてるふしもあるんじゃないの?