文学においては時代を経るに従って、論は作品の本質からずれやすくなるのではないか

先行論を読んでて感じること:「文学においては時代を経るに従って、論は作品の本質からずれやすくなるのではないか」

最近、武田泰淳ひかりごけ」の先行論をたくさん読んでいる。卒論のためだ。
古い(といっても1970年代だけどね)論から新しい論を読むにつけ感じるのは、古い論の方が意外と基本というか、作品の本質を捉えているのではないかということだ。
これは別に懐古趣味でいってるんじゃない。
むしろ「昔は良かったなあ」ってな言説には、非常に警戒している。警戒しすぎているくらいだ。
学問はどんどん前に進む。
古い論が議論され、新しい論が提出され、それが積み上がって、学問は構築される。
文学も一緒だ。
だから、論を集めるときも、地元の大学にない論は、とかく新しさ優先で印刷を依頼した。


学問はどんどん前に進む。
新しい論。以前の論をふまえて展開しているのだから、古い論より優れていそうだ。
確かに新規な読みを提出したりとか、常識的な読みをぐらつかせてはいる。ちゃんとそれらを論じている。
けれども、そういう論を読んで、元の文学作品がより面白くなるかとか、より深く読めるようになるか、と言われれば疑問だ。日本文学においては、論じられていないことを論じようとするがあまり、時代を経るに従って、作品の本質からずれやすくなっているように思う。
意外と、教科書的な論が、その作品の本質をついていたりするんじゃないか。


ただそればかりだと、読みの多様性はないわけで、なかなか難しいところでもある。


それでもやっぱりなお、論じられはじめて20年くらい目の論が、最も作品の本質をついているように思えてならない。


作品の本質をつこうとすると、常識的な論に落ちついたり、もう論じられ尽くしてきたことに到達する。
一方、これまでにない読みを提出しようとすると、作品の本質からずれてしまいがちだ。


そのさじ加減が難しい。


理想的なのは、これまでになされてこなかった読み、よく注意しないと導けない読みで、作品の本質に繋がっているものだろう。文学作品を論じることは、そういう意味でも難しいと感じている。


※あくまでも、その傾向があるような気がするっていう話だからね!
※新しい論が全部つまらんとは全く言ってないからね!
※やっぱり、目をみひらかされるような新しい論もたくさんあるよ!(つまらん論もたくさんあるけど)