「私」とは、流転そのものである。

「私」とは何か?


そのヒントになるようなことは当ブログでもいろいろ考えてきた。


例)
混沌とは何ですか?
おまえはそれでも自由であることを望むだろうか?


一つの結論を示したい。


「私」とは、流転そのものに他ならない。
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今日、祖母の家のペンキ塗りをした。
劣化した白いペンキがぼろぼろと剥がれてきていたのだ。
だから、劣化した古いペンキを剥ぎ落とし、その上から新しく白いペンキを塗った。
日差しのなか、金属でできたタワシで古いペンキをガリガリと落とす。
いかにも体に悪そうなホコリがわき上がる中での作業だ。
古いペンキをだいたい剥がすと、今度はその上から、ローラー或いはハケでまぶしい白をどんどん塗っていく。
ペンキが体につかないよう、注意はするんだけど、どうしてもペンキがはねて、手や腕についた。
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作業が終わった後、手や腕にはねたペンキをベンジンで落とすという手もあったけど、僕は石けんで洗うだけにとどめた。
水性ペンキとはいえ、石けんで洗うだけではペンキは落ちない。
しかし、二、三日もすれば手についたペンキはすっかり落ちるだろう。
なぜなら、僕の体は新陳代謝をしていて、体の皮膚なんて、すぐに新しい細胞と置き換わるからだ。
ちょっとついたペンキぐらい、古い細胞と一緒に剥がれ落ちて、手はすぐにキレイになろう。
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そうだ。
僕の体は新陳代謝をしている。
常に、新しい細胞が生み出され続け、古い細胞が捨てられ続ける。
常に、今まで体になかった原子が体内に取り込まれ続け、今まで体にあった原子が放出され続ける。
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万物は流転する。
少なくとも今、この宇宙は、エントロピーが減少し尽くした冷たい宇宙となっているわけではない。
常に物質が動き流れる世界。
この世界の万物は流転する。
この世界の一部である「私」も例外ではあり得ない。
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万物は世界をぐるぐると流転している。
世界の構成要素である「私」を、万物は通り過ぎていく。
「私」はいわば、この世界を流転する万物の一種の「道」となっているわけだ。
いやそればかりか、僕は生きることで、僕は新陳代謝をすることによって、万物を流転させる一つの原動力となっている。
「私」はいわば、万物を流転させる一種の小さな小さな「心臓」のようなものとも言えるのかもしれない。
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「私だと思いこんでいる意識体」は、「道」のように万物が通過し、それだけでなく、「心臓」のように万物を流転させている。
してみれば、世界が流転であるのと同様、「私」が生きて新陳代謝をするということは、そして「私」とは、流転そのものにこそ他ならないだろう。