殷 中国史最古の王朝

殷 中国史最古の王朝
落合淳思 中央公論社 2015

内容、カバー降り口より

殷王朝は、今から三〇〇〇年以上も前に中国に実在した王朝である。酒池肉林に耽る紂王の伝説など、多くの逸話が残されているが、これらは『史記』をはじめとする後世の史書の創作である。いまだ謎多き殷王朝の実像を知るには、同時代資料である甲骨文字を読み解かねばならない。本書は、膨大な数にのぼる甲骨文字から、殷王朝の軍事や祭祀、王の系譜、支配体制と統治の手法などを再現し、解明したものである。

感想

「膨大な数」とはいえ、内容の限られた占いの史料である甲骨文字から殷王朝の社会や歴史を解明しようとする。当然、論理の飛躍を感じる点もあるが、かねがね具体的な史料にもとづき論述している。そういう姿勢は好感がもてる。ばらばらに残された史料を集め、つなぎ、推論を確かなものとしていく様は、まるでパズルを組み合わせて一枚の絵をしあげているようだった。

本書は新書であるも、実際の甲骨文字を多数収録している。甲骨文字は、漢字よりもぐっと象形されており、それこそ「象」など本物の象にそっくりだ。また楷書と異なって、くるっと丸みを帯びており、なんとも魅力的に感じた。

メモ

・(今から3000年以上前にあった殷王朝は、王朝を経営するための規則や信仰、実効性のある権力機構や支配体制といった現実的なシステムを備えていた。)鄯

・(これまで殷王朝の研究では『史記』が重んじられてきた。しかし史記は殷王朝滅亡約1000年後に記されたものである。そのため、殷王朝の記述には虚実が入り交じっており、特に歴代の王の事績のほとんどは後代につくられた物語。)p4

・(甲骨文字は漢字の祖形である。文字としてだけではなく、文法的にみても甲骨文字の文章と漢文は似ている。)p7

・(殷王朝中期には、王朝は混乱し分裂状態にあった、と考えられる。)p35

・(殷の支配体制。首都である「商」付近は王が直接統治。一方遠方は、地方領主による間接統治。地方領主を王が封建した、との記述はなく、地方領主は土着の勢力で、ある程度の自立性があった。戦争があると、戦場に近い地方領主を動員して戦争。王が人員を徴発する場合も、王都周辺からのみ。)

・(「河」という字は、もともとは黄河、ないし黄河を神格したものを示している。)

・(殷代の祭祀儀礼は、王の宗教的権威を構築するとともに、価値ある家畜や人間を消費することによって王の経済力を示す効果がある。また生贄を家臣に分配していれば君臣関係を確認する機能もあったか。)

・(甲骨占卜は、骨や甲羅に細長く深いくぼみを彫るという細工をほどこすことで、特定のひび割れができるように加工されている。つまり占いの結果は事前にコントロールされている。殷王朝は神権政治といわれているが、実態は神を政治的に利用した政治といえる。)

・(王は定期的に王都周辺で狩猟をしているが、これは軍事力を誇示する役割がある。)

・(殷の文化は後代に大きな影響。甲骨文字は漢字へと発展し、さらにそれは東アジアの共通語として機能。祖先祭祀の重視は周にひきつがれ、のちの儒教大乗仏教にも影響。青銅器祭器のデザインは、陶磁器のそれに影響。版築城壁で都市を囲うという工法は、後代で長く用いられた。また、王都の内部に池を配することも、のちの王朝にみられる。宮殿全体を廊下で取り囲む構造も、のちの時代の宮殿や仏教建築に大きな影響を与えている。前で襟を合わせる服装も殷代にすでにみられる。髷やかんざしも。)

・(殷を滅ぼした周王朝は王の子弟や臣下を支配地域に派遣し治めさせる「封建制」をとることで、より強固な支配体制を構築した。また奴隷を生贄にする例はきわめて減少しており、奴隷の人的資源の活用もすすんでいる。これらによって周代は貴族社会へと移行。)