倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本

倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本
藤堂 明保,竹田 晃,影山 輝國(著) 原1985 講談社

内容(「BOOK」データベースより)

古来、日本は中国からどのように見られてきたのか。金印受賜、卑弥呼邪馬台国倭の五王、「日出ずる処」国書、「日本」国号、朝鮮半島と動乱の七世紀、遣唐使、僧侶や商人の活躍、蒙古襲来、勘合貿易倭寇、秀吉の朝鮮出兵。そこに東アジアの中の日本が浮かび上がる―。中国歴代正史に描かれた千五百年余の日本の姿を完訳する、中国から見た日本通史。

感想

○私たちは小中学校で、そして人によっては高校でさらに詳しく日本史を学習する。
その歴史は当然、各種文献をもとに「つくられていく」わけだ。あえて「つくる」という言葉を使ったが、誤解を少なくしたいのなら「定められていく」、といってもいい。

本書はそうやって「つくられていった」日本史の元になったものの一つである、中国史書の倭国伝を集めたものだ。特に古墳時代以前という古代史においては、当時日本で広く文字が使用されていなかったため、ほとんど唯一の基礎史料となる。

本書はそういう私たちの探りうる歴史というものののゲンテンみたいなものなのだと思う。
読みにくい、理解しにくい部分もあるし、偏見もあるだろうし、正確性を欠く部分も多々あるだろう。
そりゃ古代の中国にとって日本は、はるか離れていてろくに交流している訳ではないので当然だ。むしろ航海技術や通信技術の限られた中であっても、倭国についてけっこうな記録を整理しており、感心させられる。

中国の正史に残された倭国(後の日本)についての記述は、生の情報だ。混沌とした情報だ。そのような情報を味わって、自分なりに頭を回す。教科書に書かれていないような些細な言葉や出来事に驚く。楽しむ。

それも、学問としての歴史の楽しみ方の一つだと思った。
本書はそういう歴史の愉しみを存分に味わうことができる。

○各倭国伝の解説を付けてほしかった。読者はせっかく原文史料を苦労ながら読んでいる。その史料周辺に漂っているはずの学問上の成果を示していただければ史料の読みがぐっと深まるのはもちろん、学問上の成果もテキストとつながっているがゆえよく覚えるだろう。

古墳時代倭国には「持衰」という奇妙な風習があったらしい。
「往来に海を渡るときは、一行の中の一人に髪をすいたり身体を洗ったりさせず、肉を食べず、婦人を近づけたりしないようにさせる。これを「持衰」という。もし、その航海がうまくいけば、褒美として財物を与える。もし、一行の中に病人が出たり、事故に遭ったりすれば、持衰のしかたが足りなかったためだとして、すぐにみなでその者を殺してしまう。」p31 後漢書

○p116には、日本と朝鮮半島、中国沿岸部の載った図がおさめられ、そこには前方後円墳の分布がマッピングされている。
しかしなぜか朝鮮半島任那にある前方後円墳に印が付けられていない。本書は2010年に文庫版としてあらためて出版されているので、最近の研究成果を盛り込むことは可能だったはずだが。
版をあらためる際は訂正した方がよかろう。

○「明史」日本は、延々と和冦のことを述べていた。いついつどこどこを占領された、こんな被害を受けた、という記述が読みとばしたくなるくらい長々と続くのである。
高校時代、日本史を学習したが、和冦のことはあまり覚えていない。というのも日本の国家レベルの政治権力者が行った軍事行動ではなく、民衆の海賊行動だからだろう。さらに、日本人だけでなく中国人や朝鮮人も多数参加していたということもある。

しかし、「明史」でこれだけ和冦のことが取り上げられているということは、やはり明の政権にとって和冦による被害がきわめて大きな問題だったということがうかがえる。連綿と続く和冦が暴れ回った様子を読んでいると、そのことを思い知らされて、へえ〜と身をもって実感するのである。

○また、日本との外交についても記述されていたが、日本と明とのすれ違い具合もおもしろかった。明は、自国の権威を高めるため日本に朝貢させようと、一生懸命使者を何度も送っていることが記されていた。読んでいて皇帝の日本と外交関係を結ぼうと奮闘する姿が目に浮かぶようだった。

一方、当時の日本といえば室町時代南朝北朝に分かれて争ったり、戦国大名が台頭しつつあったりと、戦乱の世である。
確固たる権力者もいないし、各権力者も自分の周りの敵を押さえ込むのに精神的にも物量的にもいっぱいいっぱいだったのだろう。日本からの使者は少なかったようだ。なかには、明が軍事的恫喝を含めて朝貢を要求されたのに公然と拒否した日本の権力者もいた。
まあ、海で隔てられているから中国のことをそれほど気にしなくてよかったんだけどね。
元寇の大失敗をみるにつけても、中世における渡海作戦の難しさは思い知らされる。

とかく、この両国のすれ違いざまがおもしろかったのである。
日本は国内戦争で乱立する権力者たちは各々いっぱいいっぱい。しかしそれを知らずに中国の方といえば盛んに使者を送ってくる。でも日本の権力者たちはそんな「どうでもいいこと」に気をまわす余裕は全然なくて、無視。結果、中国の皇帝がぷんすかぷんすか。

以上を何度も繰り返し。なのである。


魏志から明史までを読んで、その偏見の少なさに驚いた。というより、倭(日本)に対する悪口がほとんど書かれていない。上から目線のところもあるが、基本的に冷静な筆致で感情をあまり交えず淡々と倭国の風俗やその交渉過程を記述している。

普通に考えたら、自分たちが圧倒的に文明人であるし、外国人の風習など未開の野蛮人だとして悪口をいっぱい書きそうなものだ。

相手をバカスカ見下すのではなく、淡々と風俗や交渉過程を記述しているのは、倭に対してだけでなく、朝鮮半島の国々に対してもだいたい同様であった。

中国歴代王朝は、なんでそんな「近代」然とした記述をし得たのだろう?
相手を見下す姿勢で交渉に臨んでもうまくいかないことを、その豊富な経験からよく分かっていたから?
それとも次の新しい王朝が滅ぼした前王朝の歴史をまとめるわけでから、その当時の異新しい王朝が古い王朝のことを記述しており、歴史書を書く新しい王朝にとってその異民族と直接敵対関係にあったわけではないから?
(敗戦を隠さず、異民族との戦争で中国側に大きな損害が出たことがどこそこ記述されていた。そういうことを書けるのも、新しい王朝だからだろう。)
それとも異民族に対するいい意味での興味関心って、ヒューマンユニバーサル?