海上護衛戦

海上護衛戦
大井篤 初出1953 角川書店

内容、背表紙より

資源の大部分を海外に依存している日本にとって、海上交通線(シーレーン)問題ほど重要なものはない。終戦直後、東久迩内閣も、太平洋戦争の敗因の最も根本的なものは船舶の喪失と激減であったことをあきらかにしている。本書は海軍で海上護衛総司令部参謀を務め、困難なシーレーン確保の最前線に立っていた著者が、その戦略を綴った護衛戦の貴重な体験記。現代日本の防衛を考える上でも、欠くことのできない記録である。

感想

先の大戦における大日本帝国軍の、海上交通保護に対する認識不足からはじまる失敗のあらましを、その現場を管轄する立場にいた著者が整理している。

著者は商船護衛を統括する立場として、海軍トップの海上交通保護に対する認識不足に苦悩するなか、戦況はつぎつぎと悪化。ある程度の対策を講じるもそれは後手後手にまわり、車輪が急な坂道を転がり落ちるように戦況は次々と悪化していく。
大日本帝国軍が海上交通をはじめとするロジスティクスを軽視していたことは有名だ。本書はその具体的諸相が明らかになっており興味深い。

筆者も述べていることだが、そもそもは南方の石油を確保するためにはじめた戦争のはずだ。当然、それを工場や主要な港のある本国へ運ばねば意味がない。それをどうしておろそかにしてしまったのか。軍のトップだってバカではない。日本は短期決戦、つまり艦隊戦で一気にぶちのめすかまえだったのだ。そこに注力することに数少ない勝機を見出したのだ。これまた著者も述べていることだが、そうして艦隊決戦にかけたがために、シーレーンの確保がおろそかになったのだろう。アメリカ軍は日本の誘いにのらず、長期戦で日本に対抗し、最終的には圧倒的な戦果を得た。

日本がそのシーレーンを失い、物資や人員の輸送能力を奪われていく。その様を、自軍やアメリカ軍の具体的な船数やトン数、石油やボーキサイトの量を逐一紹介しながら追っている。その数字はかねがね悪化していくし、その数字の一つ一つに膨大な兵士の命と貴重な資源が失われていったことを思うと、やりきれない思いがする。

・「連合艦隊」、「連合艦隊」ともちあげる言説をよく聞く。たしかに初戦の圧勝ぶりは胸をすくうようだし、技術の面でも戦術運用の面でも、確かに大国アメリカにキャッチアップした。その証明だろう。しかしその艦隊決戦をねらう連合艦隊を重視したため、犠牲になったものがあった。それが護衛艦隊であった。装備の量や質、人員の配置でも、連合艦隊が優先され、海上輸送網の護衛は犠牲にされた。その結果が、初戦の圧勝だったし、ずたぼろにされていく後半につながっていくのだろう。攻勢攻撃のために日本がしぼりにしぼりだした一滴。それが連合艦隊であったのかもしれない。

・なお、筆者は戦中から海上交通保護の重要性を説いていたようである。筆者と軍中枢部とのやりとりがいくつも紹介されている。筆者は海上交通保護の需要性を説くも、それがうまく上層部に通じないというやりとりがほとんどである。本書は日本が戦争に負け、その理由も明らかになったあとに書かれている。筆者の言は勝者のあとづけの感がなくもない。もっとも本書が出版されたのは終戦8年後という、まあ、すぐである。筆者とのやりとりについて反論がある人物は異をとなえられよう。それをくぐり抜けてきたのであれば、ある程度の信頼性が担保されているといえる。

・「輸送船団の安否に一喜一憂する護衛司令部の緊迫した雰囲気。」(http://www.amazon.co.jp/review/R3VXA1THA0Y75O/ref=cm_cr_dp_title?ie=UTF8&ASIN=4059010405&channel=detail-glance&nodeID=465392&store=books)を指摘する意見があったが、なるほど、と思った。

・敗戦間際に戦艦大和が沖縄へ「特攻」したことは有名だろう。著者はその当時、北支航路の護衛用に7000トンの重油を要求し承諾を得ていた。しかしのちに、大和の特攻のために3000トンに減らされた、と聞く。それを問いただそうとすると「光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、 その栄光を後世に伝えんとする」という訓辞が出てきた。それに対し、著者は「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統がなんだ。水上部隊の栄光がなんだ。馬鹿野郎」、とどなるように言って電話をきる。
すでに極めて貴重だった油をこのような無謀な作戦に投入し、そしてむざむざと無駄にした。連合艦隊を、ひいては帝国海軍をしばりつけていた鎖は、想像以上に強固だったのだ。

メモ

・日本の軍部は仮想敵国にどのようにして勝つかといった軍事的な考慮で頭がいっぱいであった。国がいかにして生存し、いかにして繁栄すべきかというような、根本的な政治的な問題はあまり検討されなかった。

海上交通保護が軽視された理由。
 日本海軍の伝統が形成されつつあった明治時代は、日本は農業国でだいたいにおいて自給自足だった。海上交通の重要性が低かった。
 日清戦争日露戦争の艦隊決戦で大勝利をあげ、その伝統がひきつがれた。
 アメリカを仮想敵国にした。アメリカという日本の数倍もある国力をもった国になんとか勝つ方法として見出したのが艦隊決戦だった。

海上交通保護に対する認識のなさが、対米戦争を決めた要因の一つ。

アメリカももともとは艦隊決戦を志向していた。潜水艦も、商船破壊ではなく艦隊決戦の補助兵力として位置づけられていた。しかし1939年秋以降、ドイツ潜水艦がイギリス商船に対し大きな成果をあげているのをうけ、アメリカも潜水艦の運用を商船やタンカーの破壊にむけた。

アメリカの潜水艦魚雷は性能が低かった。そのため、沈没をまぬがれた日本船も多かった。しかし1943年の9月以降、アメリカは新型魚雷を多数配備したため、日本の被害は急増。

・日本の海上輸送網は、特に米軍の潜水艦によって被害を受けた。

・初戦で数多くの勝利を重ねた日本軍は、当初の予定をこえる地域にまで戦域を拡大。

昭和18年9月、御前会議で戦線を縮小し強固な防衛圏をきずく方針が決定されるも、連合艦隊は以前、攻勢攻撃を続けた。その結果、多くの艦船が撃沈された。

・あまりに被害が拡大したため、10〜15隻の船団で輸送する「大船団主義」がとられるようになった。(もっとも、大西洋で激突していた諸国は70〜80隻の規模だったが)
これは効果があり、被害の減少につながった。

・人員の質も連合艦隊が優先され、護衛艦隊は二の次。

・艦隊決戦を志向する海軍に対し、陸軍の方がより護衛を重視し、海軍に対しても護衛を充実するよう要望していた。

・海軍は、昭和18年12月まで、護衛専門ないし対潜作戦専門の航空隊は編成していなかった。戦術の研究もされていなかった。

・島国の日本は海外から資源を運んできて、内地で軍需用にしたて、さらにこれを船で前線へ送る。海上輸送が生存のカギなのに、これの護衛をおろそかにした。

・日本近海にまで制空権を握った米軍は、港湾に機雷を投下し封鎖をはかった。

・米軍は港湾を封鎖し、また都市への爆撃を行ったが、鉄道網へはあまり攻撃していない。なぜだろうか。

・太平洋戦争末期、戦闘機はあれど、燃料がなくろくな訓練が行えなかった。そのため、パイロットの質は大幅に低下していた。