昭和天皇伝

昭和天皇
伊藤之雄 2011 文藝春秋

内容、カバー折口より

生気に満ちた皇太子時代、即位直後の迷いと苦悩。戦争へと向かう軍部の暴走を止めようとする懸命の努力、円熟の境地による戦争終結の決断、強い道義的責任の自覚を持って日本再建に尽力する戦後。苦難に満ちた公的生涯のみならず母・貞明皇太后、妻・良子皇后、子・今上天皇と美智子妃などとの生々しい家庭生活にまで筆を費やした、読み応え十分の傑作評伝。

感想

昭和といえば、だれもが認める激動の時代である。アメリカやイギリスと協調する道から、勢力拡大へ舵をきった。そして、四方八方と激しい総力戦を行い、それは敗北におわり、国土をずたずたにした。第二次世界大戦後は急速に復興。高度成長期をむかえ、アメリカに次ぐ経済大国へと成長した。

この激動の時代に昭和天皇は何を考え、どう生きたのか? 1000年をこえる血統。特異な背景をもつ立憲君主制の王に焦点をあて、昭和の一側面をえがいている。

生真面目な性格と分析される昭和天皇は、数々の政治判断にみまわれ、初期の対応については、本書で批判されている。しかし、しだいに円熟味を増し、敗戦の落としどころにむけて重要な決断をくだし、また敗戦後の日本再建に尽力した。おこがましい言いようだが、激動の時代、特異な権力と責任を背負わされた一人の人間の成長をうかびあがらせている。

メモ

○「右翼たちは天皇制を支持し、天皇親裁を唱えるが、彼らのあるべき天皇像を持っており、それと異なると、なかなか従おうとはしない。後に即位して昭和天皇となった裕仁が苦しめられるのも、軍部や右翼のこのような態度」p92

○(皇太子時代の昭和天皇は、良子妃とテニスやゴルフなど、かなりの時間スポーツを楽しみ、一緒に過ごした)p128

○「真珠湾攻撃の前、米国はヨーロッパ戦線やアジアでの威信を重視する一方で、過度の日本不信に陥り、イギリスや中国との連携を重視し、かつ日本の軍事力を見くびっていた。このため、日本が開戦を避けたいと考えているにもかかわらず、米国はハル=ノートという日本への強い要求を急に提示するなど、互いに妥協しながら戦争という最悪の事態を避ける、という努力を事実上しなかった」p450

○(昭和天皇が受けた教育は、当時の日本としてはかなり自由主義的で自らものを考えることを重視する、先進的なもの。ただ学友がごく少数に限られた点は問題あり。)

○(昭和天皇は、張作霖爆殺事件の処理、ロンドン海軍軍縮条約問題、満州事変での対応を誤った。
十分な準備のないまま重要な慣行を破って自分の意見を通そうとしたのである。
あるいは逆に弱きになって陸軍のある部隊の独断専行を処分をしないこともあった。そのため軍部への威信を確立できなかった。)

○(二・二六事件で天皇は自らの判断でクーデター鎮圧を直ちに命ずるも、陸軍は方針を十数時間決めず、二日間も行動を起こさなかった。当時、天皇が軍部への威信を十分確立できておらず、彼らの統制が困難だったことがわかる。このとき天皇は、陸軍を統制するには陸軍内の支持者を得ることが必要だと学んだだろう。)

立憲君主制の実態
確かに天皇は政府や軍部の政策を拒否することができる。しかしそれは閣僚の辞任につながり、そして後任を得られなければ、次の内閣をつくることができない。そのため、陸軍もしくは海軍首脳が一致してすすめている政策は事実上拒否できなかった。

天皇の意向を国政に反映させるためには、権威を確立し、権力行使を抑制しつつ必要な場合にはバランスのよい調停的な政治関与を続けなければならない。当時の昭和天皇は権威を十分に確立できなかった。

昭和天皇は、原爆投下、ソ連軍の参戦により陸軍の戦意が弱まったところで、強い決意で戦争終結への道筋をつけた。

○戦後は閣僚の内奏に対する質問や巡幸などを通して、間接的に日本の再建に尽力した。

○米国、英国の伝記はその人物の公的な面だけでなく、私的生活を生き生きと活写している。そうして対象人物の生き方、浮き沈み、種々の感情を論じ、生涯そのものを描こうとしている。
トップレベルの政治家たちは、後世の歴史家たちによって自分がどう描かれるのかを、常に念頭において行動する。伝記が政治の弛緩や腐敗をおさえている。