琉日戦争1609 島津氏の琉球侵攻

琉日戦争1609 島津氏の琉球侵攻
上里隆史 2009 ボーダーインク

内容、出版者ウェブサイトより

本格的歴史ノンフィクション登場! 独立王国・琉球、最大の危機。戦の嵐、迫る!
最新の歴史研究の成果で「島津軍の琉球侵攻」を、琉球王国、日本、そして海域アジアを巡るダイナミックなスケールで描き出す。 独立王国・琉球を狙う「九州の覇者」、薩摩島津氏。そしてアジア征服の野望を抱く豊臣秀吉、対明講和をもくろむ徳川家康。ヤマトの強大な力が琉球に迫る。これに立ち向かう尚寧王と反骨の士・謝名親方。海域アジア空前の「交易ブーム」の中、うごめく海商・禅僧・華人たちが情報戦(インテリジェンス)に絡み合う。『目からのウロコの琉球・沖縄史』『誰も見たことのない琉球』で大注目の若き琉球歴史研究家、満を持しての書き下ろし!

感想

島津氏による琉球侵攻までの琉球史(古琉球)、東アジア情勢、そして島津氏の歴史(なんと侵攻直近ではなく中世から!)。豊臣秀吉徳川家康の日本統一政権が、日本諸勢力の対琉球政策に与えた影響・変化、琉球侵攻の具体的推移、その後の沖縄などを整理している。

琉球といえば、言語学的な面でも遺伝的な面でも日本に非常に近しいことはよく知られている。しかしながら、15世紀までは日本とは独立した勢力が統治しており、海洋の途上にあって、独自の世界を育んできた。著者は琉球大学の出身であり、また出版者も沖縄にある。タイトルも「琉日」とめいうっており、琉球の立場・視点によった本かと思ったが、そんなことは全然なかった。むしろ琉球侵攻を、琉球王国と島津氏の勢力争い、「戦争」ととらえている。南九州を中心とする日本各地から琉球、そして中国沿岸部に至る「ヒト・モノ・情報」p159の活発な交流(和冦の活動も含め)や、16世紀〜17世紀初頭の時代感覚からすると、著者のスタンスは公正だし妥当だと思った。そういう点で、妙な思想に毒されていない、純粋な学問的結果であると、安心して読めた。

あとがきに本書の特徴が述べられている。曰く、1609年前後だけではなく、古琉球と中世島津氏との関係から整理していること、軍事史の視点から両軍の戦闘を分析したこと、島津氏に関する記述を意図的に増やしたこと。

最後の点について、「沖縄にとって鹿児島は歴史的に最も交流の深かった地域である」「両者がお互いをより深く理解するきっかけにしてほしい」という。鹿児島出身の私としては沖縄についてほとんど知らない自らの不勉強を恥じるととともに、著者の心意気に深く頭を下げる思いだった。

メモ

・14世紀に琉球王国は明朝の朝貢国になる。琉球王国は他国と比べ異例ともいうべき優遇をうけた。民間の交易勢力を琉球王国の体制内で活動させることで、海域の秩序維持をねらった。

・日中間航路の変化にともない港湾都市として那覇が栄え、また明という超大国が成立した。そうした海域アジアの交易拠点である那覇を中心として、琉球王国が成立し、その後の歴史が展開した。

琉球の実質的な交易活動は那覇の華僑や日本人僧という外来勢力に大きく依存。「新興の小国だった琉球は当時の海域世界にはりめぐらされていた民間交易ネットワークに便乗するかたちで参入」

・島津氏は、諸勢力に分かれ一カ国の支配もままならない状態だったが、16世紀後半、対抗勢力を駆逐し、領国支配を固めていった。それにともない、島津氏は日琉貿易の独占をねらってしだいに琉球に対して高圧的な態度に変わっていく。さらに九州の大部分を手中に収めるようになり、その強大な軍事力を背景に琉球を己が従属的な存在として位置づけようとした。

・豊臣政権による対朝鮮戦争について、その軍事情報が琉球から明におくられていた。なお、そのなかで朝鮮が明を裏切って日本側につく、という情報がまじっており、それが明の対日戦争に大きな影響を与えた。明はまず明と朝鮮間との防御を固め、朝鮮への探索活動を行った後、朝鮮への救援軍をおくったのである。その後も、明の朝鮮への疑惑は弱まることなく、琉球発のインテリジェンスは大きな影響を与えた。

・明は島津氏の反豊臣感情を見抜き、離反工作を行っていた。この背景には当時の海域世界における活発なヒト・モノ・情報の移動ある。

・徳川政権は明との国交回復を課題としていた。そのため明を刺激する島津氏の琉球侵攻計画に対し、あまり積極的でなかった。

・17世紀初頭の琉球王国は外征能力をもつ軍隊を保持していた。琉球は相応の軍事組織・武装がきちんと存在している。軍隊として機能する数千人規模の王府組織、数百以上の単位の弓、火砲、甲冑を常備。しかし、装備については火器を主力とするような状態ではなく、室町期の装備と同様のレベル。

・なぜ琉球軍は島津軍に負けたのか?
特定の港湾の防衛(上陸阻止)に兵力をさき、想定外のところから上陸してきた島津軍にたちうちできなかった。
激しい戦乱を経験していない用兵の低さ。
装備の質の貧弱さ。
交戦派、講和派、または逃亡する高官がいるなど、意思統一の不徹底。

・現在、沖縄の伝統と考えられている仕組みや文化、風習は古琉球の時代から伝わったものではなく、17世紀中ごろに摂政となった羽地の合理的な改革路線のうえにたつもの。琉球は自らの力で変革をなし、その後270年間を生き残った。