レイチェル・カーソンの「海のなか」を読んで

 『海を本当に知っている人など、いるのだろうか?』


 「沈黙の春」で知られるレイチェル・カーソン女史は、短編「海のなか」でそう書き起こす。私たちはここで、この問いに答えるために彼女の言を拡大解釈する必要に迫られるだろう。すなわち、自然を本当に知っている人などいるのだろうか?、と。


 なぜなら、海を本当に知ることと自然を本当に知ることとは同義だからだ。そして、もっといえば海を知るには自然を知る必要がある。海は単体では存在しない。私たちは海を知るためにもっと大きな視点を持つ必要がある。それこそが自然という名の一システムだ。


 自然を本当に知っている人はいるのだろうか?この問いに答える前に少し疑問が浮かぶ。そもそも、自然とは何か?私たちはこの「自然」という言葉に対しきちんとした定義を持ちえているのだろうか。


 ウィキペディアによると、「①人間の意志・作為が介在しないあるがままの状態、現象、およびそのことによる生成物。洞窟、湖、滝、山、川、海、泉、台風、地震津波など。 ②意識しない、意図しない行動。本能による現象、行動。」などとある。私たちもこのような意味で自然という言葉を使っているだろう。特に、ここでは自然という言葉を名詞的に実態のある対象として捉えているので、「①人間の意志・作為が介在しないあるがままの状態、現象、およびそのことによる生成物。洞窟、湖、滝、山、川、海、泉、台風、地震津波など。」が重要となる。


 ここでまた疑問が浮かぶ。確かに上の定義に洞窟、湖、山などは当てはまるだろう。だが農村はどうなのだ。農村は、人間の意志・作為が介在しないあるがままの状態、現象、およびそのことによる生成物、といえるのだろうか。もちろん違う。農村はむしろ人間による意思・作為そのものである。だから上の定義に従えば、農村は自然ではなくなるではないか。


 だがちょっと待って欲しい。私たちは、金色の稲穂が揺れる田園風景に自然という言葉を使うだろう。あるいは、もし西洋人なら、穏やかな丘陵での放牧にそれを認めるかもしれない。つまり、農村は私たちの感覚で言えば、立派な自然のひとつなのだ。


 私たちがよく使う自然と人工という対比。例えばそれが、湖とダムに使われるならば、その基準は人の意思の介入があるか否かに求められるだろう。湖とダムとの違いは人の作為のあるなしにあるといってよい。ところがその、自然と人工という対比を、農村と都市との対比に用いるとするならばどうだろうか。実際に私たちはそのような形で農村と都市とを対比する。むしろ、湖とダムなんかを対比するよりもずっと多く、農村と都市とを、自然と人工として比較するだろう。もちろん、その比較の基準に、人の意思・作為のあるなしを求めることはできないのは見てきた通りだ。どちらも、人の意思・作為が濃厚だからである。


 いづれにせよ一つはっきりしている。それは、自然という概念には人の意思の介入がはっきり見られる場合もあるということ。つまり、人の意思の介入という基準では自然という概念を正確には捉えていないのだ。だから、自然とは何かを考えるにあたって、もっと別の、自然に対する定義を抽出しなければならない。


 人の意思・作為が加わりつつも自然と呼ばれているもの。畑、田んぼ、街路樹、神社の桜、庭園、放牧、漁業などなど。これらから見出される共通点は何か?それは、それらが地球という一つのシステムに永続的な観点から組み込まれているか否かである。


 そう、自然に与えられる本当の定義とは、人の意志・作為がない、もしあってもそれが地球システムに永続的な観点から組み込まれているということなのだ。例えば、都市に私たちは自然を認めないだろう。都市は土壌や河川環境に壊滅的な打撃を与え、生命の多様性を一気に喪失させる。とても地球というシステムに永続的な観点から組み込まれているとはいえない。だが、農村はどうだろうか?完全にとまではいかないが、都市と比べるとはるかに、地球というシステムに永続的な観点から組み込まれているといえるだろう。実際、世界的な環境破壊が問題になったのは近代以降だ。


 田圃の方が生物多様性が大きいと聞いたこともある。生物多様性についてはまだ考えが深まっていないのでここでの言及はこれだけにしたい。


 「自然を本当に知っている人などいるのだろうか?」。もちろんごく一部の前近代的な生活をしている人を除いていない。なぜなら、私たちが生きているこの時代===近代===は地球システムに永続的な観点から組み込まれていないからだ。自然から隔離され、一方的にかつ大量の資源を搾取し、科学汚染を生み出している近代人には、本当の自然など知る由もない。


 それは海においてでもある。カーソン女史は繊細な海の表情を伝えたかったわけではあるまい。また、ただ海の表情を知っていたとしても、本当に海を知っているとはいえないだろう。私たちが本当に海を知るには、そのサイクルに永続的な観点から===つまり近代人としてではなく前近代人として===己が命を投じなければならないのだ。





 ところで、ここで奇妙な逆説もまた成り立つ。つまり、私たちは自然を知っているのである。そもそも、自然とはどこにも実在しない。極めて恣意的な(人間本位な)概念である。なぜなら地球システムから見たときに、人とその他を、そして永続的か非永続的かを分けることになんら必然性がないからだ。自然とはただ観念として人に内在するのみである。人がそう思えば自然足りえるし、そう思わなければ自然足りえない。


 重要なのは、人が「自然」を、無意識に、人の意志の介入しないもの、もしくは地球システムに永続的な観点から組み込まれているもの、と定義しそれを心地よいものだと感じていることだろう。


 思うに私たちは昔の、いわゆる前近代的な生き方をしていたときの感覚に支配されているのだ。人が地球システムから永続的な観点で離脱してたった数千年。もっともその起源を、市民革命・産業革命に始まる近代に求めるのか、それとも人が環境を大きく変えることを覚え大いなる一歩を踏み出した農耕牧畜に求めるのか、議論が必要だろう。だがどちらにしても、人の進化の歴史に比べて極めて短いということは同じだ。


 その数千年の、人の知識の集約による環境の変化速度に、人の身体・感覚・認識の進化速度がついていけてないのだろう。結果的に、地球システムと人とが調和していた時代の感覚が私たちを支配する。


 もし暗澹たる環境問題に一筋の光があるとするならば、このこと以外にあるまい。


 「海のなか」を読んで浮かぶ鮮やかな海のイメージ、そのサイクルに身を投じたいという強烈な願望。それは私が幼少のころ過ごした奄美の美しい記憶によっているのかもしれない。けれども、もっと強く感じる。私の、自然を、海を、求めてたぎる何かを。


《2006年2月7日の記事を転載》