神々の沈黙(意識の誕生と文明の興亡)

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神々の沈黙(意識の誕生と文明の興亡)
ジュリアン・ジェインズ著 柴田裕之訳 2005 4 6 紀伊国屋書店


最初に各章のまとめをあげる。その次に訳者による全体のまとめ部分を抜粋。そして、skycommuの私的見解。


【第一部 「人間の心」
第一章 「意識についての意識」 のまとめ】
 私たちは、意識が何であるかという何らかの概念、私たちの内観がいったい何なのかというしっかりとした定義を持ち得ていない。まずもって、これに関してはっきりとした考えを持たねば、意識について論じることなど出来ないだろう。あるものの正体を明かす手がかりすら得られないとき、それがなんでないかを問うところから始めるのは賢明なやり方だ。よって意識がなんでないかを考えてみよう。
 「私たちは、意識は通常考えられているようなものではないという結論にたどり着いた。意識は反応性と混同されてはならない。意識は多くの知覚現象にかかわっていない。意識は技能の遂行に関与せず、その実行を妨げることも多い。意識は話すこと、書くこと、聞くこと、読むことに必ずしも関与する必要はない。たいていの人が考えているように、経験を複写してもいない(何かを自分の経験したことを想像してごらん。すると実際に経験したとおりに見たり、聞いたり、感じたりはせず、むしろ客観的視点で再創造して誰か他人であるかのように自分をその場に置いて見てしまいがちなはずだ。またそれは単純な感覚器官が得た心象の追跡ではなく、以前に意識を向けたもののもっともらしいパターンであるはずだ。つまり記憶を振り返るという行為は大部分が創作であり、他人の目で自分を眺めることを意味し、かつ以前に意識を向けたものの想起である)。意識は信号学習に無関係であり、技能や解決法の学習にも必ずしも関与する必要はない。これらはまったく意識されずに起こりうる。また、意識は判断を下したり単純な思考をしたりするのにも必要ない。意識は理性の座ではなく、非常に困難な創造的推理の事例のうちには、意識の介在なく行われるものさえある。そして、意識の在りかは、想像上のものでしかないのだ。」
「私たちの活動の多くに意識はたいした影響を持たない」
「そして、もしこの推論が正しければ、会話や判断、推理、問題解決にとどまらず、私たちのとる行動のほとんどを、まったく意識を持たぬ状態でこなす人々がかつて存在しえた可能性は十分ある。」
「意識のない文明がありうる」


【第二章 「意識」 のまとめ】
 比喩は、「事物の特定の側面を指し示したい、あるいは、表現する言葉がないものを記述したいという願望を実現する」ものだ。
 この比喩の、馴染みのない現象・物をより馴染みのある言葉でおきかえて表現するという行為は、実に意識の世界が日々行っていることと同じである。「何かを理解するというのは、より馴染みのあるものに言い換え、ある比喩にたどり着くこと」に他ならない。「主観的な意識のある心は、現実の世界と呼ばれるもののアナログだ。それは語彙または語句の領域から成っており、そこに納められた用語はいずれも物理的な世界における行動の比喩、言い換えれば、アナログだ。」
 これらから「意識が言葉の比喩によって創造された可能性を示唆する」ことができるだろう。
 「意識は事物や収納庫、あるいは機能というよりは働きかけだと述べた。意識は類推によって、つまり、アナログの空間を構成することによって働きかける。そこでは、アナログの〈私〉がその空間を観察し、その中で比喩的に動くことができる。意識はどのような反応性に対しても働きかけ、関係ある場面を〈抜粋〉し、それらを比喩的な空間で〈物語化〉し、まとめて〈整合化〉させる。比喩的な空間では、現実の空間における事物同様、これらの場面の意味を操作できる。意識ある心は世界の空間的アナログであり、心的営みは身体的営みのアナログだ。意識は客観的に観察できる事物にのみ働きかける。あるいは、ジョン・ロック風に言うならば、意識の中には、もともと行動の中にあったもののアナログでないものは一つもない。」以上のように、意識が言葉の比喩から生まれた世界のモデルであるという考え方から、いくつかの明白な推論がえられ、かつそれらの推論は私たちの日常における意識ある経験によって検証できるのだ。
(※アナログ=類似物)


【第三章 「『イーリアス』の心」 のまとめ】
 今までの議論により、意識は人類にのみ生じえたもので、それは言語が発達してからの出来事に違いないと考えられる。それでは意識の起源というのはどこにあるのだろうか。それを解くには人類史上最古の著述がどのような精神構造を持っていたのか知る必要がある。
 現在、確実な翻訳が行える言葉で書かれた現存する人類史上最古の著作は『イーリアス』である。吟じ手と呼ばれる吟遊詩人たちによって歌い継がれたこの復讐譚は、作品中の出来事が起こったとされる紀元前1230年頃から作品が文字化された紀元前900年頃ないし850年頃まで、その時期をさかのぼれると推定されている。この『イーリアス』における心のありようを探っていよう。すると、極めて興味深いことが次々と浮かび上がってくるのだ。
 イーリアスに登場する戦士たちは神々の声を聞き、それに疑いもなくただ従い行動している。また、イーリアスには精神的な事柄を表現する言葉がない。そこから、イーリアスの登場人物たちは、自分が世界をどう認識しているかを認識しておらず、内観するような内面の〈心の空間〉を持っていなかったと考えられる。つまりイーリアスの話の舞台となる時、内容が歌い継がれた時、そして著述された時に、人々が主観的な意識をもたない時代だったといえるのだ。
 一部、主観的な意識に近い現象が登場するも、それらはイーリアスの中でも、おおもとの詩に後世に付け足された部分である。だから、イーリアスは意識のない時代から意識ある時代への一大転換期に立つ作品と見なせるだろう。
 基本的にどの王国の神政政治で、人々は新しい状況に直面するたびに聞こえてくる声の奴隷だった。イーリアスは主観的な意識のない時代を垣間見させてくれるのだ。


【第四章 「〈二分心〉」 のまとめ】
 「前章で導き出された途方もない仮説は、遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた、というものだ」(二分心)。大昔、人類は新しい出来事に直面したとしても何をすべきか内観することなく、自分の二分心の声が、それまでの人生で積み重ねてきた訓戒的な知恵をもとに、何をすべきかを非意識的に告げるのを待たねばならなかった。
 これは日常における無意識の行動(車の運転など)やストレスのかかった人、統合失調症の患者における幻聴・幻覚などに表出される。ここで重要なのは「自己」が気づいていない知覚判断を、神経系が「自己」に気づかれぬまま行い、予言のような形で「自己」に伝えていることだ。
 なお、これらの幻覚はストレスに生理的透因があるに違いない。このストレスこそ意志決定(「意志」という言葉から、意識を暗示する痕跡をすべて取り除きたいが)によって生じるものである。各種実験により意志決定をする時に強いストレスが生じていることが明らかにされている。よって、強いストレス下において、またその前に意志決定を下す幻覚は「神々の救済」であるという風に考えることもできるだろう。
 声の影響力は絶対的で、統合失調症患者にとって少なくとも初期においては幻聴のほうが真実であり、絶対だ。
 主観的意識を持つ人間の意志を説明するのは、今なお難解な問題であり、満足のいく回答は得られていない。だが(二分心)の人間の場合は、この声こそが意志だった。別の言い方をすれば、意志は神経系における命令という性質を持つ声として現れたのであり、そこでは命令と行動は不可分で、聞くことが従うことだったのだ。


【第五章 「二つの部分から成る脳」 のまとめ】
 人間の脳は左右で機能がかなり違う。ここでは右利きの人の話に限定するが、人間の言葉機能をつかさどる言語野は不思議と左脳にしかない。その中でも特にウェルニッケ野と呼ばれる部分が言語活動に重要である。そして、その逆である右脳の、左脳におけるウェルニッケ野に相当する部分に、神々の声を誘発し、訓戒を告げる領域があるのではないだろうか。
 これにより、(二分心)時代には右脳のウェルニッケ野に相当する部分に「神」の役割があり、左脳のウェルニッケ野には「人間」の役割があったと類推できる。そして、発達の初期段階で〈二分心〉が生まれてもその発達が阻害されるような心理的な再組織化が1000年にわたって行われ、この領域は異なる機能を持つようになった、と考えても差し支えないと思う。また同様に、現在、意識が神経学的にどのようであろうと、その状態がいつの時代でも不変であると考えるのは誤りだろう。
 根拠として、各種実験や研究によって導き出された知見は以下の通りである。
?両方の大脳半球が言語を理解できる。ただし発話は、通常左半球によってしかできない。
?ウェルニッケ野に相当する右半球の領域には、神々の声に似た機能の名残がある。
?二つの半球は、特定の状況下ではそれぞれがほぼ別々の人間として活動でき、その関係は〈二分心〉時代の人間と神々との関係に相当する。
?現代における半球間の認識機能の違いは、〈二分心〉の人間が登場する文献に見られるような、人間と神との間の機能の違いを少なくとも反映している。
?脳は私たちがこれまで考えていたよりも、環境によって形作られる余地が大きく、そのため、おもに学習と文化の影響により、〈二分心〉の人間が意識を持つ人間へと変化した可能性がある。


【第六章 「文明の起源」 のまとめ】
 どうして古代には〈二分心〉のようなものが存在し、神々の声が人を支配したのだろうか?もし、仮に〈二分心〉時代の脳の構造が、前章で推察したとおりだとしたら、人間の進化の過程で、何らかの淘汰圧が働きあのような重大な結果をもたらしたことになる。本章ではそれを検討する。
 一般に捕食されやすい哺乳動物は、自身を守るために群れを作る。そして、この群れの大きさ強固さの上限を決定するのが意思疎通のシステムだ。この群れの大きさの上限という問題を解決すべく、二分心というシステムが発達したのではないか。
 言語は人間なるものの本質的な部分なので、その由来は人類の歴史をさかのぼり、まさにヒト属の起源、つまり約200万年前までたどれるに違いないと一般には考えられている。しかし、言語は物事や人に対する人類の認識を根本から変えるものであり、非常に広範な情報の伝達を可能にするものだ。だから、「言語の新しい発達段階の一つひとつが、新たな知覚作用と注意力を文字どおり生み出し、その新たな知覚作用と注意力が、考古学的遺物に反映されるような重要な文化的変化につながった」と考えられる。その点紀元前四万年前までは、きわめて粗末な石器以外、考古学的遺物はほとんど何もなく、言葉の存在はうたがわしい。考古学的遺物の発達段階にそうように、言語も発達していたのだと考えるのが適切だろう。
 そんな風に、言語が発達する中で幻聴も生まれたのではないか。人間が自分自身あるいは族長からの命令を聞き実行するところから、意識なき人間にとって幻聴が「部族の生活で時間のかかる仕事を一人ひとりにやり通させる働きを」するようになったと考えられる。
 やがて、人間が農業をし、町を作りだし、200人を超えるような集団をもつにいたり、この幻聴が大きな社会を維持するのに必要な仕組みとして発達したのではないか。幻聴はやがて王の命令を考え、問題を解決し、それを伝えるようになったと考えられる。ここでいう王は必ずしも生きている必要はなく、死者でもいい。この世に存在したことがない、夢幻ですらいい。そのような仕組みがあってこそ、これほど大きな集団を誕生・維持させられたのだろう。この、より大きく強固な集団をより効率よく運営するという必要が、人間における二分心という構造を成立させる淘汰圧となったのだ。


【第二部 「歴史の証言」
第一章 「神、墓、偶像」 のまとめ】
「本書の第一部では、〈二分心〉が生み出した社会組織こそが文明の発祥を可能にしたという仮説を立てた。本章と次章では、場所や時期を問わず、文明が発祥する時は必ず〈二分心〉の精神構造が見られたことを示す世界各地の証拠を、あまり深入りせぬようにしながら、まとめようと思う。ここでは、古代の諸文明には二分心に基づいてしか理解できぬ顕著な考古学的特徴をいくつか上げよう。」いずれも幻聴の源かそれによる現象である。
 まず、ある集落が、神殿の機能を有するひときわ大きく壮麗な建物を中心に、普通の家や建物がそれを取り囲むように建っている場合である。その神殿の多くに人間をかたどった像のようなものがあるだろう。それらは二分心の文化または二分心の文化に由来する文化によって成立したといってよい。宗教施設を中心に据えた町など今でもよく見られるが、それも二分心時代の文化の名残といえる部分もあると考える。「一歩下がって、文明化した人間を霊長類としての進化の全課程に照らして見詰めてみれば、そうした町や都市の構造はまさに特殊であって、人間の祖たるネアンデルタールから引き出せる類のものではないことがわかる。」
 また重要な人の亡骸をあたかもまだ生きているかのように埋葬する慣習ーーー食べ物や召使いを供えたりーーーは、使者の声が生きている者に相変わらず聞こえており、その声がそういう葬り方を求めていたのだと考える以外には説明がつかないのではないか。死者が神々の起源であることは二分心文明の文献からもうかがえる。「悲しみ自体がそのような慣習、つまり愛する者や崇拝する指導者の死を受け入れようとせず、親愛の情の表現として使者を神と呼ぶといった行為につながったとは考えられないだろうか。その可能性はある。しかし、この考えは残された証拠が示すパターンをそっくり説明するには不十分だ。死者を神と呼ぶ行為が世界各地に広がっていたこと、巨大なピラミッド建築のような壮大な事業が行われたこと、そして死者の霊が生きている者に何かを伝えようと墓から戻ってくるという話が言い伝えや文献として今日まで残っていることまでは説明できない。」
 さらに、「人の形をした偶像の数と種類が膨大であることと、それが古代人の生活で明らかに中心的役割を果たしていたこと」が二分心を示唆している原始文明の特徴である。偶像が神々の声の幻聴を助けるものだったと考えれば、偶像と深いかかわりを持つ文化におけるその明らかな重要性を理解しやすい。ペルーを征服したスペイン人の記録には、悪魔が神殿で原住民たちによく語りかけていた、とある。
 以上あげた特徴はいずれも初期文明においてみられる。古パレスチナ、シュメール文明、バビロニア文明、ヒッタイト、古メキシコ、マヤ文明アンデス文明、チムー文化、インカ帝国、古エジプト、古中国、古ギリシアインダス文明メソポタミア文化などなどを本章では検討した。
 これらはいずれも、二分心時代の考古学的証拠といえるだろう。


【第二章 「文字を持つ〈二分心〉の神政政治」 のまとめ】
 文字を持つ文明の資料から二分心時代の証左を探してみよう。ここでみるのはなんとか解読されつつある二種類の古代文字、エジプトの象形文字メソポタミア楔形文字だ。「前3000年紀に登場した文字のおかげで、まるで幕が開いたように、私たちは前述の輝かしい文明を不完全ながらも直視できるようになった。そしてこの間のある時期に、神政政治の二大形式が存在していたことが明らかになった。一つはメソポタミアにおける神の管財人たる王による神政政治で、王は神々の所有する土地・人民の管理者だったというものだ。もう一つはエジプトにおける神たる王による神政政治で、そこでは王自身が神となる(著者は古日本もこれに位置づけている)。
 メソポタミアの文献からもエジプトの文献からも、神々を奉り、神々の声を聞き、それに従う王や人々の様子が読める。なかには直接、神々に好しき判断を述べてもらうため云々、といった記述もあり、二分心時代を強力にうかがわせる。
 またメソポタミアやエジプトの資料からは二分心の神政政治の変化がみえる。時代が進むにつれ、人口は増大し、社会組織のテンポが速くなり、政治組織の複雑さはどんどん増す。そのため、たいへんな数の神々が現れ、人々が遭遇するありとあらゆる状況に応じて祈願の対象となった。二分心による神政政治は「複雑性の増大に直面した際の脆さ」があるのだ。このような状態になるとあらゆる権威が崩壊する。そして、また新しく都市を建設し、王をいただくのだ。
 しかし、メソポタミアではこれほどの混乱はおきなかったようだ。理由に、神の管財人たる王による神政政治の方が柔軟性が高く、また文書の利用が進んでいたからだと思われる。それは二分心に代わる社会統制の方法の先がけであった。


【第三章 「意識のもと」 のまとめ】
 安定したヒエラルキー制度のもとでは二分心に基づく神政政治でよかった。声はいつでも正しく、ヒエラルキーに不可欠な要素であり、日常生活に関する神々の命令は、型にはまった様式にしっかり結びついて固定され、人類が大きな集団を営むのに不可欠かと思われた。
 しかし、前2000年紀の終わり頃、どうして、二分心から意識へという、人間の精神構造に大きな変化が起こりえたのか。それをなしえる仮説的要因をいくつかあげたい。
?文字の出現によって幻聴の力が弱まったこと。
?幻覚による支配には脆弱性が内在していたこと。
?歴史の激変による混乱の中で神々が適切に機能しなかったこと。
?他人に観察される違いを内面的原因に帰すること。
?叙事詩から〈物語化〉を習得したこと。
?欺きは生き残るために価値があったこと。
?少しばかり自然淘汰の力を借りたこと(ただし、あくまで意識は生物学的必要性から生まれたというよりは、おもに文化的に導入されたもので、人間は言語をもとにそれを身につけて他人に教えた)。


【第四章 「メソポタミアにおける心の変化」 のまとめ】
 紀元前1230年頃のアッシリア専制君主トゥクルティ・ニヌルタ一世の治世において、だんだんと神々の不在をうかがわせる粘土板がでてくる。
  『神を持たぬ者は、通りを行くとき、
   頭痛が衣のようにその身を包む。』
どうやら、このころのアッシリアの人々には神の声は聞こえないようだ。これらは二分心の崩壊とそれに伴う混乱を指し示しているのである。
  『私を捨てた神よ お救いください、
   私を見放した女神よ 慈悲をおかけください。』
この、一見すると現代の宗教にあるような救済の願望は、上にあげた文章以前にはいっさいみられない。祈りという神を崇拝する行為は二分心がなくなって初めて、つまり、声なき神にわざわざ助けを求めるようになって初めて、成立する行為なのだ。
 この時期に登場した悪魔という概念も二分心の崩壊によるものである。神の力の不在という空隙に、悪魔を信じる心がすばやく忍び込んだのだ。やがて、人間に害する自然現象などが悪魔の仕業とみなされるようになった。悪魔から身を守る種々の魔除けがでてくるのもこの時期である。神の居場所が天へと移りかわっていったのも、二分心の崩壊ゆえだろう。もはや地上は神々の居場所ではなく、人間と悪魔と天使の居場所で、そのかわり天空が神々の居場所となったのだ。
 物言わぬ神々に対処するために主観的意識(〈私〉が様々な行動の選択肢をその結果に至るまで〈物語化〉できるような作業空間を、言語的比喩を基盤として発達させたもの)が誕生したのだが、それ以前に、そしてそれとともに行動を決するために発達したものが占いである。これも神々が衰退してからのできごとだった。
 楔形文字はまだまだ正確な翻訳ができる文字ではないが、アッシリアと古代バビロニアの書簡を比較すると前者の方が私たちの意識によく似ている。碑文を検討しても1300年頃を境に急速に内容にあつみが出てくる。ギルガメッシュもだんだんと年代が新しくなるにつれて主観的言及がなされている。このように、ミソポタミアの楔形文字からは、後代になるにつれ主観性の端緒をうかがい知ることができる。


【第五章 「ギリシアの知的意識」 のまとめ】
 ギリシャで発達した主観的意識について、「イーリアス」や「オデュッセイア」、ヘシオドスの作とされるボイオティアの農民の生活を歌った叙事詩、紀元前7世紀とやや後代の叙情詩やエレゲイア詩、紀元前6世紀初頭の哲人ソロンの記述などをもとに年代順にみていこう。
 「イーリアス」では具体的で身体的なものを指していた言葉が、後期ギリシャ語になると意識の諸相を表すようになる単語がある。この言葉の編纂は意識の発達の経緯を考える上で極めておもしろい。身体的なものを意味する単語が、意識の機能のようなものを表すようになる過程は以下のように整理できる。
○第一期 客観的段階 これらの用語が、たんなる外部からの観察結果を述べるにとどまっていた〈二分心〉時代の段階。
○第二期 内面的段階 これらの用語が、体の内部のこと、とりわけ体内の特定の感覚を意味するようになった段階。
○第三期 主観的段階 これらの用語が、いわゆる「心的」過程を指す段階。当初は行動の原因と思われる内的刺激を意味していたものが、その後、比喩の形で行動が起きうる内的空間を表すようになった。
○第四期 総合的段階 様々なヒュポタシス(*俺注*後に意識の機能を表す用語のこと、上の これら用語 と同じ)が合体して、意識ある一つの自己を形成し、内観できるようになる段階。
一期から二期については、身体的なものを指していた言葉がやがて、神不在による高いストレスによって生じる生理作用(血管の萎縮、身体の火照り、呼吸の乱れ、鼓動の速まりなど)を指すようになったのだろう。二期から三期かけては、身体的なものや、ストレスによるそれの生理作用を指す言葉が、やがて、「文学的比喩によって、つまり器や人格にたとえられることによって、空間的・行動的特性を獲得し、それが後世の文献でアナログの〈私〉を伴う統一された〈心の空間〉へと発達する。」例えば、外部から知覚されるままの活動を意味するだけだった「thumos」という単語が、活力を入れる器のようなものとして比喩されたり、喜んだりするものとして擬人化されたりしている。つまり「循環系や筋肉が大がかりな変化を起こしているという内面の感覚を、力を込めうる一つの「もの」と表現するのは、想像上の「空間」を生み出すことであり、ここではいつも胸の中に想定されるこの「空間」は、現代の意識における〈心の空間〉の前進となる」のだ。
 「イーリアス」から一世紀以上後にまとめられたとされる“「オデュッセイア」では主観的意識へと発展する過程が、意識発達前のヒュポスタシスの使用頻度増加や空間的内面化、人格化に見られるだけでなく、叙事詩に登場する出来事や、登場人物たちの人間模様の中にいっそう明確に見て取れる。先に述べた手練や知謀が強調されている点もその一端だ。「イーリアス」では、時間は出てくるにしても、整合性に欠ける曖昧模糊とした形で扱われている。しかし「オデュッセイア」では、「始まる」「躊躇する」「すばやく」「持ちこたえる」などのような時間にかかわる単語が使われ、時間の空間化が進み、未来への言及も盛んに行われるようになってくる。また、具体的な用語に対する抽象的な用語の割合も増え、直喩が著しく減少している。”
 ヘシオドスの作といわれる『労働の日々』や哲人ソロンの記述からは正義や道徳への言及もみられる。今まで訓戒を与えてくれた神不在によって成立するものだろう。声が聞こえなければ、人間は行動の結果を意識し、それに基づく道徳に従って何をなすべきかを知らねばならないからだ。


【第六章 「ハビルの道徳意識」 のまとめ】
 後のヘブライ人となる人々の想像の物語、旧約聖書。歴史や語り、歌、説教、物語から成るこの堂々たる一大集大成が、その壮大な概要をなぞってみると、二分心が失われ、前100年紀に主観性がそれに取って代わった様子の記録になっている。
 旧約聖書に納められた最古の部分と最新の部分を比べると、最古の部分にはない「心」や「思考」「感覚」「理解」を示す記述が最新の部分にはみられる。まさに、二分心状態にある人間と主観的意識を備えた人間の違いをそのまま反映しているのだ。
 また、時代を経るに従って預言者の聞く神の声に著しい混乱が出てくる。やがて彼等は追われるようになり、そのまま時代の闇に消えていった。主観的思考による道徳が人間を統べるようになったのだ。
 旧約聖書における種々の偶像への言及も二分心時代を象徴している。
 「旧約聖書は二分心から主観性への移行期がどのようなものであったかを知る上で、比類なくゆたかな情報源であることに変わりはない。旧約聖書とは本質的に、二分心が失われ、残存する神が緩やかに沈黙の中へと後退し、それに続いて混乱と悲劇的暴力が起こり、予言者たちの中に神の声を再び得ようと空しく探したあげく、ついに道徳規範にその代用物が見出されるまでを描いた物語なのだ。」


【第三部 「〈二分心〉の名残り」
第一章 「失われた権威を求めて」 のまとめ】
 過去3000年間の内に発達した論理学や哲学、科学、合理的非宗教的法体系などは神々の意志に代わるものを見出そうとする努力にほかならない。見方によっては私たちは、2000年紀が終わろうとする今もなお、新しい精神構造への移行のまっただなかにあるといえるのだ。いまだに私たちの生活に二分心の影が色濃く残る分野がある。それは主に多種多様な宗教の伝統だ。私たちは神々の声を失いつつあっても、また失っても、その古き権威を追うことはやめられない。概して人類は自分たちより偉大で完全に異質なものと何らかの人間的なつながりを持ちたいという強い思いを捨てることがなかったし、今も捨てていない。神々の救いを求める宗教は健在だ。
 現代においても神の家があり、そこで人の誕生が記録され、人としてのあり方が決まり、結婚式や埋葬が執り行われ、人は罪を告白して神の許しを請う。私たちの法律が拠り所とする価値観は、神の教えと合致しているからこそ意味や強制力を持つ。国家が掲げる標語や、国をたたえる賛歌は、神への呼びかけの形をとることが多い。王や大統領、裁判官や役人は、就任にあたって今はもう物言わぬ神に誓いを立てるが、その誓いの文言は、神の言葉を最後に聞いた人々の記録から取っている。偉大な神々・指導者たちの像は花々を捧げられ宗教施設や庭園にたたずむ。これらも二分心時代の名残だ。
 もっと古い時代の二分心の名残に神託がある。これは静まり薄まった神々を求める行為だ。その神託の歴史をみていくと、初めは強力だった神託(よく聞こえた神々の声も)も、しだいに混乱(聞こえる人が限られ、また聞こえる回数が減り、また聞くため(トランス状態になるため)の手順・儀式が複雑になり)し、やがて消滅していく(聞こえなくなる)さまが読める。
 このように、意識が薄れる現象には様々な種類があり、どれも二分心の精神構造の名残をとどめていると考えられる。それらの現象からはある共通した「構造」を仮想できる。ここではそれを「〈二分心〉の一般パラダイム」と呼び、その四つの側面をあげよう。
?「集団内で強制力を持つ共通認識」 集団内で信じられていること、つまり文化全体の合意に基づく期待や掟を指す。これに従って、一つの現象に特定の形が与えられ、その形の中で人々が実行すべき役割が決まる。
?「誘導」 限られた範囲に注意を集中させて意識を狭めるために、はっきりと儀式化された手順。
?「トランス」 ?と?の両方への反応として現れ、意識の希薄化や喪失、アナログの〈私〉の希薄化や喪失を特徴とする状態。トランス状態になることによって、帰属集団が受容あるいは許容あるいは奨励する役割を果たす。
?「古き権威」 トランスに入って交信したり結びついたりする相手。普通は神だが、人間の場合もある。後者となるためには、その人間が、トランス状態になる者に対して権威を持つことを本人もその所属する文化も認めている必要がある。また、「集団内で強制力を持つ強制認識」によって、その人間がトランス状態を支配しているとされていることも前提となる。
これらは失われた二分心を求める2000年にわたるもがきの特徴なのだ。


【第二章 「預言者と憑依」 のまとめ】
 神託は、二分心が薄れるにつれ、だんだんと憑依という形になる。これは神託を告げる者もその言葉も完全に神の側に支配されており、意識を喪失し、別の新しい意識に置き換わる現象だ。この憑依は〈二分心〉が姿を変えたものといえる。なぜなら、二分心による幻聴と憑依とでは、次の三つの大きな関連性を持っているからだ。 ?どちらも社会において同じ機能を果たしている。?どちらも同じように、権威ある言葉を伝える。?初期の神託についてわずかに明らかになっていることから見て、特定の神宅地については、もともとその場に居合わせた誰にでも神々の声が聞こえていたのが、しだいに少数の特別な人物が神に取り憑かれる状態へと変化したと考えられる。 神託が憑依という形になったのは、古い精神構造を呼び戻すために、しだいに発達してきた意識をこれまで以上に消し去り、人間側の動きを押さえる必要があったためなのかもしれない。その結果、神の側が発話そのものの主導権を握るようになったのだ。
 女性の脳の方が、男性の脳のように、左右どちらかに心的機能が集中していない。女性の方が右半球に多くの言語機能が残されていると考えられ、実際、信託者は女性が多い。
 二分心を取り戻そうとする憑依の他に、一種の病気として「悪しき憑依」も存在する。ストレスによって左右の脳半球の正常な関係が崩れ生じるのだろう。
 右半球の言語中枢が「明瞭な」発話そのものに関わっているとはまず考えられず、憑依は左半球で明瞭な言葉が組み立てられて、それを右半球が操っていると考えられる。このように脳内で左右の境界を越えた制御が起きることが、正常な意識を失うという現象の根底にあるのかもしれない。
 また、意味不明の言葉をよどみなく話しながら、本人も内容を理解できないし、普通は話したことすら覚えていない「異言」という現象も二分心の一般的パラダイムを備えており、二分心の名残といえるだろう。


【第三章 「詩と音楽」 のまとめ】
 古代の精神構造における神の側はたいてい、いやことによるとつねに、韻文で語っていたのではないか。これまで〈二分心〉を裏づけるものとして取り上げたものには詩が多かった。
 そして、意識の時代になっても〈二分心〉を持ち続けていた人間はすべて、神の側について語る時や神の側から語る時には韻文を使っていたのだろう。歴史的に見て、神の声は詩・歌だったのだ。
 また、科学的にみてみると歌ういう行為は、主に右半球の働きらしいことが明らかになりつつある。古代の詩は、語るというよりは歌われるものであり、右半球の産物であることは、すなわち詩が神の声であったといえよう。
 「詩は、〈二分心〉の神の側が語る言葉として始まった。〈二分心〉が崩壊すると、まだ神の言葉を聞くことのできる者が予言者として残る。その一部は公認の信託者となって神託を告げ、先々のために決定を下した。また一部は詩人という特別の職業について、神が語る過去の出来事を人々に伝えた。その後、〈二分心」が持つ有無を言わせぬ力が弱まり、何らかの抑制が右半球にかかってきたのだろうか、詩人は修行を積まなければ神の声が聞こえなくなる。それすら難しくなると、狂乱状態に入らなければ、さらには我を忘れて神懸かりの状態に達しなければ、もう詩は作れなくなった。これも神託の場合と同じだ。前1000年紀が終わりに近づき、散文で語られた神託を意識的に韻文に書き換えるようになった頃、とうとう詩にも同じ運命が訪れた。詩才はもはや、ムーサたちの合唱によって与えられるものではなくなる。意識を得た人間は、詩を書いては言葉を削り、あるいは足し、書き直すなどしながら、いにしえの神の声を忠実に再現しようと苦心惨憺するようになった。」


【第四章 「催眠」 のまとめ】
 催眠には過剰なまでに人を従わせる力を持っている。それは〈二分心〉を可能にする一般的パラダイムを用いて、意識を持ってしては成しえない絶対的な制御を行動に加えることができるからだ。
 〈二分心〉の一般的パラダイムとは「集団内で強制力を持つ共通認識」、「誘導」、「トランス」、「古き権威」である。催眠という自分の意識を失い、他人の意のままに行動し、感じてしまうこの奇妙な現象も、二分心の一般的パラダイムが適用でき、二分心の影響が色濃くうかがえる。
 催眠にはなぜあれほどの強制力があるのだろうか?正気の時には自分ですら自分をそうそう変えることは出来ないのに、催眠時には他人によって行動もアイデンティティすらも変えられる。きっとそれは、学習で身につけた私たちの意識が、なお、完全でないからだろう。私たちは二分心の名残に、つまり行動を制御するための古いやり方に、ある程度は助けてもらわなくてはならないのだ。今の私たちは「なぜ」「何のために」という疑問が飛び交う騒がしい世界に生きている。そうやって衝動的な行動を防いできたのだ。しかし、知識の雑音に耳を貸さず、ほんとうに自分を変えるには、ときに〈私〉たちにはない権威が必要となる。


【第五章 「統合失調症」 のまとめ】
 「自分を非難し、何をすべきか命令する、抗い難い力を持った声が聞こえる。それと同時に、自己の境界がなくなるように思われる。時間が崩壊していく。本人はそれを知らず行動する。〈心の空間〉が消えていく。彼等はパニックに陥るが、パニックは彼らに起きているのではない。彼らはどこにもいないのだ。どこにも拠り所がないのではない。「どこ」自体がないのだ。そしてそのどこでもない場所で、どういうわけか自動人形になり、自分が何をしているのかわからぬまま、自分に聞こえてくる声や他人に操られ、異様でぎょっとするような振る舞いをする。気づいてみれば病院にいて、診断結果は統合失調症だという。だが、じつは彼らは〈二分心〉に逆戻りしているのだ。」
 二分心という考えは、最も一般的で直りにくい心の病、統合失調症の新しい概念を提起する。それは、これまでの章で論じられてきた諸現象と同様に、統合失調症も少なくとも部分的には〈二分心〉の名残であり、〈二分心〉の部分的再発である、というものだ。
 歴史的に見ても、精神異常者への言及が出てくるのは二分心時代が崩壊してからだ。なぜなら、二分心時代では、誰もが統合失調症のようなものだったからである。また、それに対する初期の言及からは二分心を推察される。
 統合失調症というのは、そのものについてかなり漠然とした広範囲な議論のある難しい問題をいろいろと含んでいる。しかし、ここで重要なことは「顕症期で服用していない統合失調症患者に、とりわけ特徴的でよく見られる基本的な症状のいくつか(幻聴があること、それがしばしば宗教的で、つねに権威的であること、自我あるいはアナログの〈私〉が解体すること、何をなすべきか、どんな時点にあって、どんな行動をしていたかについて、かつて自我が〈物語化〉できる場所だった〈心の空間〉が消失すること)は、これまで述べてきた〈二分心〉の説明と見事に一致している」ということなのだ。
 もっとも二分心と統合失調症には大きな相違もある。統合失調症における二分心への逆戻りは部分的なものにすぎない。周りは意識あるものたちによる世界なのだ。統合失調症の患者は、周囲の人々から幻聴・幻覚を否定され、不安を感じ、それから逃れるために社会から引きこもってしまう。そして、幻覚が統制するべき精神構造のまっただ中で、何らかの支配力を確立しようとしているのだ。


【第六章 「科学という占い」 のまとめ】
 第三部では、詩作や音楽などの芸術的営みだけでなく、文明社会の特徴、すなわち、神託や宗教といった社会制度、憑依、催眠、統合失調症などの心理的現象もすべて、部分的にはずっと昔の人間の精神構造の名残と解釈できることを示してきた。現代の様々な動きは、古代に失われた二分心という精神構造への回帰とそれに代わるものへの追求なのだ。
 そして、必死になって自然と格闘しながら確実性を真剣に求める「科学」も二分心の崩壊に対する反応と解釈できる。
 人が科学に向かう衝動は単なる好奇心によるだけではない。宇宙全体や人間への新しい理解を構築し、無窮の普遍的事実を求め、かぎりなく確実を目指す科学。それは何も教えはしない神に代わるものとして希求されてきたのだ。科学は、私たちに世界観を広げ、価値のヒエラルキーを提示し、自分が何をなし、何を考えるべきかを教えてくれる。人生における決断を助け、指針を与える。これは数世紀前まで宗教が、そしてもっと前には我らに住まう二分心が担っていた役割と同じである。
 その昔、崩壊した原始の精神構造の残骸の間で何をなすべきか占っていたのが、今では、科学として、事実という神話の中に汚れのない確実性を探っているのだ。



【訳者後書きよりまとめの部分を抜粋】

 まず序章で意識の問題の歴史を概観し、近代の諸説の誤りを明らかにした後、第一部では本書の根幹を成す考えを次々に紹介する、意識とは「何でないか」という消去法で外堀を埋め、意識を持たぬ人々の社会の存在を示唆したあと、一転して、比喩という特性を軸に、意識が言語に基づいており、言語発生のはるか後、今からわずか3000年ほど前に誕生したという仮説に至る。その視点からホメロスの『イーリアス』を分析し、そこに、神々の声に支配された、現代人のものとは完全に異なる精神構造を見出す。命令を下す「神」とそれに従う「人間」に二分された心を〈二分心〉と名づけ意志決定のストレスが神々の声(幻聴)を誘発するという生理的要因を示す。この幻聴は命令の形をとり、行動と不可分で、「聞くことが従うことだった」のだ。続いて、この(二分心)の生理学的裏づけとして、大脳の左右両半球に着目し、右半球が「神々」の側、左半球が「人間」の側というモデルを示す。最後に、〈二分心〉の存在理由を問い、〈二分心〉を人類が「小さな狩猟採取集団から、大きな農耕生活共同体へと移行」するのを可能にした社会統制の一形態と位置づけ、「神々とともに、言語進化の最終段階として生まれ」、その「展開の中にこそ、文明の起源がある」と結論する。
 意識の考古学とでも呼べる第二部では、〈二分心〉の存在と衰退、意識の台頭を示唆する歴史的証拠を検証する。最初に、〈二分心〉が社会統制の形態であり、それが文明発祥を可能にしたという仮説を裏づけるために、世界各地の文明の揺籃期には必ず〈二分心〉の精神構造がみられた証拠を、神という概念と神政政治の発生、墓や偶像といった遺物を軸に、メソポタミアやエジプト、ペルーなどで掘り起こす。次に、文字の発達や、戦争と大災害と民族移動、もともと内在する脆弱性などにより、〈二分心〉が衰退し、神々が沈黙して幻聴が消え去る過程、それを埋め合わせる形で祈りや占いが現れ、意識や道徳が発達する過程をたどっていく。ここでは、楔形文字の粘土板や彫刻、碑文、『イーリアス』『オデュッセイア』をはじめとするギリシアの文学、旧約聖書の比較や分析で精神構造の変化を鮮やかに浮かび上がらせる。
 第三部では、「〈二分心〉の時代から現在に通じるいくつかの道筋」を検討する。テーマは多彩だ。〈二分心〉が衰退してできた穴を埋める努力としての神託、偶像の復活、現在まで残る偶像崇拝、憑依の歴史と現代における憑依、異言。詩や音楽と〈二分心〉の結びつき、神託の衰退をなぞるように弱まる詩人の霊感。意識を超えた制御力の存在を物語る催眠と〈二分心〉の類似。〈二分心〉への逆戻り現象としての統合失調症。これらはすべて「部分的には」〈二分心〉の名残と見なせる。そして、科学や本書までもが、〈二分心〉崩壊への反応と解釈でき、現代の様々な動きも、「もはや存在しないもの」への回帰の試みであるとし、「真実という概念そのものが、文化に与えられた指針であり、大昔の確実性[〈二分心〉]に対して誰もが抱く根深いノスタルジアの一部なのだ」と結んでいる。
 「後期」では、第一部と第二部で述べた主要な仮説の補足説明を行うとともに、意識の登場のおかげで「認知力が爆発的に向上し」、人間が「自己」を築き上げるようになり、情動から感情が生まれたことを示している。


私見
 極めて興味深い本だった。間違いなく著者は「意識」という概念に新しい光を投げかけたといえるだろう。意識というのは考えられているよりずっと最近生まれたと主張し、その成り立ちや仕組みについて鋭く考察している。実際、私も本書を読む前から、意識が私たちの生活にそれほど影響を及ぼさないのではないか、と考えてきた。それは、主に進化心理学からの知見である。進化生物学における淘汰の理論を人間の心理に適用すれば(実際適用すれば人間の心理の不可思議性などたちまちのうちに氷解する)、人間の意識、ひいては「私」は生存に有利なように(これはあくまで巨視的な見方による言い方で、実際は確率論的に生存に不利なものの気質が後生に伝わらなかったということだ)自然と歴史と環境とが導いてきたものにすぎず、まったく「あなた」と「私」の違いなど、これまでの個性に対する認識からすれば、雲母の中に消えてなくなってしまう。それだけではない。思考というのは、過去、生存に有利(確率論的に不利な思考の気質が伝わらなかったということ)だったということの結果にほかならず、恐ろしいくらいに厳しく限定され縛られた中でしか、普通の人の思考は成り立たないのだ。


 氏は進化心理学的方法によらずにここまでおもしろい仮説をぶったてている。だがいくつかの疑問も残らざるを得ない。ここではいくつか筆者の主張をあげつつ私なりの考えを述べよう。


 ○意識は言語に基づいている。


 これが一番の疑問だ。もちろん言葉というものは人間をまさに人間たらしめている極めて重要な機能であり、大いに意識に影響を与えていると考えてしかるべきだ。しかし、言語の比喩から意識が生まれた、とするのはいかがなものか。その可能性も捨てるべきではない。しかし、少なくとも氏の説明からはすっきりと納得しがたい。


 意識は「アナログの〈私〉が機能的な〈心の空間〉で〈物語化〉を行うこと」であると氏は主張する。私にはまだこれをどう料理すればいいかよく分からない。ただ全面的に賛成ではないことを記しておこう。(卑怯といわないで!)


 ○古代の人間(だいたい前2000年紀より昔)は意識を持たず、それまでの人生で積み重ねてきた訓戒的な知恵をもとに何をすべきか命令を下す「神」と呼ばれる部分と、それに従う「人間」と呼ばれる部分に二分されていた。そして、その多くの機能はそれぞれだいたい右脳と左脳に分けられる。


 二分心が誕生した進化生物学的根拠が極めて危うい。大きな集団を作る必要性から二分心が生まれたというのはちょっと強引ではないか。


 むしろ、なんらかのきっかけにより人間が少しずつ意識を獲得していく中で、それまで無意識に「私」を行動させていた衝動に気づいた、と考えられないか。それが二分心における「神の声」の正体ではないか。


 さらに、ふと疑問。古代の人々は無意識的声を「神の声」だと明瞭に思ったのだろうか?


 思った時点で、これはもう意識があるということではないか。ジェインズ氏はそこら辺をあまり検討しないで論を進めている。上のように感じるには無意識から意識への途中でなければならない。もし人が無意識の時点にいるとしたのならば、神の声を感じることもないはずだ。この点に対する著者の言及はほとんど見られない。古代の人々は意識を持たず、神々の声に黙従していたのではなく、意識の萌芽により、神々の声に気づき、そしてそれに従っていたとするべきだろう。


《20060915の記事》