我感ずる、ゆえに我あり

「センティオ・エルゴ・スム、我感ずる、ゆえに我あり。」
感性の起源 P197 より


まさにそう。
私という認識主体は世界を感じる。それこそが私。


「考える」私があると同時に、世界を「感じる」私がいる。
人は考える存在。考えることは一見理性的なことにみえる。
しかし、考えるという行為であっても、人間の神経系の限界に縛られることをまぬがれ得ぬのだ。
考えるという行為は、思っているほど高尚なことではない。



私とは何か?


決して私は、この肉体のことではない。
神経系のことでもない。


私というのは、この己が肉体の神経系によって生成された、世界を認識していると思いこんでいる認識主体のことに他ならない。


さらば、私の本質とは「考える」というよりむしろ、世界を「感じる」ということだろう。


センティオ・エルゴ・スム。
我感ずる、ゆえに我あり。


「あなたは」、「世界を」、「どう」、「感じますか?」


《20080820の記事》