赤を見る(感覚の進化と意識の存在理由)

赤を見る(感覚の進化と意識の存在理由)
ニコラス・ハンフリー 柴田裕之訳 2006 紀伊國屋書店


【カヴァー折口より】
脳科学や心理学がいくら進歩したといっても、「視覚のクオリア」という用語が示すように、「私たちはいったい何を見ているのか」を記述しようとすれば、たちまち言葉に詰まり、立ち往生してしまうだろう。
本書は、才気あふれる進化心理学者が、「赤を見る」というただひとつの経験にしぼり、この難題に挑んだ野心作である。
「赤を見ている心」をどう記述すればよいのか。あなたの見ている赤と私の見ている赤は同じものか。赤の感覚と、感情や知覚との関係とは?相手と分かりあえる共感は最近注目のミラーニューロンの仕事?さらには、感覚と心の進化の物語をたどり、「意識の迷宮」へと問いを進めていく。
問いを詰めていった先に著者が見出した意識の存在理由をめぐる結論は、「コロンブスの卵」的なものであった。意識は、この人生を生きることが大切で有意義なものであると思わせるべく存在し(だからこそ「他者の自己」を尊重する気持ちも生じ)、そのために不可解な性質を持たねばならなかった、と。
スリリングで示唆に富む心の哲学・心理学の一冊。


【雑感】
意識はなぜ生まれたのか?という問いに、進化理論をもってアプローチするという視点はよい。しかし、その答えの根拠がいかんせん薄い。観念的すぎる。


「外の世界について気にしたほうが、自分のためにならないだろうか。(中略)答えはもちろん、イエス、だ。」p102


と著者はさらりと書いているけれど、論理的飛躍が大きすぎるんじゃないの。
これは、刺激とその反応をモニターする機能があった方が生存に有利だった、それが発達して意識になった、と導かれる。しかし、この論理だと、モニターする意識というものの存在を、そもそも存在していたものとして仮定しているように感じる。


刺激の受容とそれへの反応から意識(感覚)が生まれるにはにはもっと具体的な飛躍が必要だと思う。意識と自動的な反応(反射)には大きな違いがあるはずで、そこらへんを丁寧に追っているようには思えなかった。


前著『内なる目』で展開された、意識は他人の行動を推測するため進化した、という考えの方がずっと説得力がある。


《20080819の記事》