語り手について考えることは・・・・・・
語り手は物語世界を物語るという超超特権的な地位にある。語り手に従い、語り手の目を通して、読み手は物語世界を読むわけであって、しばしば無意識に語り手と読み手は同化する。
だから語り手の感覚を注視することは、物語そのものを考えることに他ならないばかりか、物語を読む読み手そのものを考えることに他ならない。
例)語り手が「A子はしぐさがかわいくて素直だ」と語ると、読み手もA子はしぐさがかわいくて素直だと無意識に思う。
物語世界を超超特権的に語る語り手の感覚を暴いたとき、そこに物語世界を読む読み手の姿が、今まさにそこにいる自分自身の姿が、浮かび上がってくるだろう。
一人称小説はもちろん、二人称、三人称の小説であってもそれは同じだ。
語り手の認識に注力すると、小説という名のテクストは、ぐっとおもしろくなる。そして、それを成してはじめて、小説とそれを読む自分との対話が始まるのだと思う。
《20080523の記事》