【読書ノート「思いの記録」】と【「逝きし世の面影」】と【僕の思想テーマ】

僕は高校2年の時から高校3年にかけて、読書ノートをとっていた。
その名は「思いの記録」。B4ノートで2冊。
その最初のページには、実に偉そうにこう書いてある。


「読んだ本の記憶を忘れんがため。また若き日の想い出にこれを記すことにする。
2003年5月25日」


その時僕が高い評価をした本には、印がついていている。
印なし。印あり。印ふたつあり。
3段階評価だ。


今まで本棚にほったらかしにしていたけれど、あらためてパラパラめくるとなかなかおもしろい。
考えが浅かったり、意外と深かったり。
好きな漢詩の横に、自分の詩が書いてあったりw
思想的な面では意外と変わっていない。成長しろよ、オレ。
大学に入り、進化心理学という言葉を知ったが、高校の時からすでに進化生物学の本からその骨子を知っていたようで、そのことが少し驚き。


自分の意見と他人の意見をいまいちはっきりしない点がいくつかあるのが不満だ。


とかく、今の僕にとっては何よりも興味深いテクストであることには間違いない。
そういう意味では高2の時の僕の企みは見事成功したといえるだろう。
実をいうと、僕が超超有名人になったあかつきには、「skycommu全集・資料編」に載ることを期待しているw 短歌俳句のメモノートもあるから、その次になるのかな、年代順に載せるとなるとw


久しぶりに、本棚からこの「思いの記録」を引っ張り出してきたわけで、せっかくだからその中から一冊の読書メモを、ここにテキスト化してみようと思う。
「逝きし世の面影」。
僕が高校の時、最も衝撃を受けた本だ。


以下、「思いの記録」より。


【逝きし世の面影
渡辺京二
葦書房
1998年9月20日


 この本は近代とは何かをつかむために、前近代について書かれた本である。そして、その前近代から選ばれたのが江戸文明である。


 著者は再三注意をうながす。「私の意図するのは古きよき日本の哀惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。」 この本でこのような態度をとることは正しい。賛美にうもれ客観的な見方をとれなくなるからだ。しかし、それを執筆の動機とするならば多少はウソとなるだろう。なぜなら著者も私と同様に、欧米人の記録に甚だしく心を引かれたであろうから。


 ちょっと触れたが、江戸文明への手がかりとして、欧米人の記録を使っている。幕末の動乱期に日本にやってきた欧米人だ。異邦人の記録を利用することは、なるほどおもしろい。自らのことは、それは当然として、記録されにくいからだ(skycommu注、これは確か渡辺京二が本書で指摘していること)。江戸時代に欧米人がやってきたことは、そういう意味では幸運だったといえる。この本の著者は程良く邦人の記録を利用していることもまた、書いておこう。


 著者は欧米人の記録を利用することの重要性を丁寧にかつ躍起に説明している。このことは、日本に充満する空気について考えさせてくれる。それは前近代を一様に不便であったとする空気である。自分たちの民族について不必要なまでに卑下する空気である。


 彼らの記録にはキリスト教的観念がつきまとっていることが多い。だが、また純粋に文化を比較しようとした者がいたことは驚きだ。欧米人と日本人との交流も決して軽くみれないし、また中には文明の滅びを予見した者もいる。いずれも19世紀後半の欧米諸国の教養の高さが窺えよう。


 欧米人の記録の中の日本は、実に魅力的だ。むろん多少の批判があったり、また批判ばかりの人もいるが、その多くは、日本の魅力について半ば熱狂的に筆をすべらしている。


 逐一引用していてはいくら紙があっても足りないので僕が特に感じ入った3点を紹介したい。


 一つは人々がよく笑うという点。
ディクソン「ひとつの事実が」たちどころに明白になる。つまり上機嫌な様子がゆきわたっているのだ。群衆のあいだでこれほど目につくことはない。彼らは明らかに世の中の苦労をあまり気にしていないのだ。彼らは生活のきびしい現実に対して、ヨーロッパ人ほど敏感ではないらしい。西洋の都会の群衆によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤子にいたるまで、彼ら群衆はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる。」 
クライトナー「日本人はおしなべて親切で愛想がよい。底抜けた陽気な住民は、子供じみた手前勝手な哄笑をよくするが、これは電流のごとく文字どおりに伝播する。」 
モース「私はこれらの優しい人々を見れば観る程、大きくなり過ぎた、気のいい、親切な、よく笑う子供達のことを思い出す。ある点で日本人は、あたかもわが国の子供が子供じみているように、子供らしい。ある種の類似点は、まことにおどろくばかりである。重い物を持ち上げたり、その他何にせよ力のいる仕事をする時、彼らはウンウンいい、そしていかにも『どうだい、大したことをしているだろう!』というような調子の、大きな音をさせる」


 二つは日本国土が自然に恵まれている点。
チェンバレン「苔むす神社の影を落としている巨大な杉の樹。言いようもないほど優美な幾何学的曲線を描く円錐形の火山。油断なく飛び石伝いに渡らなければならない渓流。蜘蛛の糸のように伸びていて一歩踏むごとに震える吊り橋が懸かる深い谷川。野の花が絨毯のように敷きつめ、鶯や雲雀の啼き声が響き渡り、微風の吹く高原。霧が白い半透明の花輪となって渦巻く夏山。深紅の紅葉と深緑が交錯する谷間。その谷間から上を見上げれば、高く聳える岸壁は鋭い鋸歯状を描き、青空をよぎっている。ーーー確かに日本の美しさは、数え上げれば堂々たる大冊の目録となるであろう。」 
ミットフォード「午後のひととき、公使館のまわりをぶらぶらと歩いていると、不意に水平線から、なだらかに優美な曲線をえがき、白雪をいただく円錐形の山頂がくっきりと天空にそびえ立つ富士山の全容が、私の目に映った。私は名状しがたい強烈な興奮に駆られた。昨日までは考えもつかぬ狂気にちかい気持ちの高ぶりであった。そして、その時の異常な興奮はいまもなおその余韻がさめやらぬし、おそらく生涯の終わりまで消えることがないだろう。」


 三つは江戸時代の人々が自然を身近に楽しんだ点。
ボーヴォワル「わたしは、日本人以上に自然の美について敏感な国民を知らない。田舎ではちょっと眺めの美しいところがあればどこでも、または、美しい木が一本あって気持のよい木陰のかくれ家が旅人を休息に誘うかに見えるところがあればそんなところにも、あるいは、草原を横切ってほとんど消えたような小径の途中にさえも、茶屋が一軒ある。」 
ヒューブナー「読者諸氏にはこういう言いがたい幸福感を思い描くことがおできになるだろうか。つまり、篠つく雨が絶え間なく朝から晩までどしゃぶりに降っていて、快い涼しさをふりまいているなかで、・・・庭に向かってぱっと開け放たれた瀟洒な部屋で、とても綺麗な畳に寝ころがっているという幸せを。」 
ジーボルト「花好きと詩は日本において分離できぬ車の両輪である。スモモと桜が雪のような花をつけて人目をひき、満開の藤が厚く藤棚を覆う時、日本の詩人は彼の愛する満開の花の影の下に憩い、軽やかな筆でその感興を金色を散らした小さい紙に書きつけ、その紙を彼が詩に詠じた樹々の枝に結びつける。」】


 先の3点とは関係ないが、紹介に足る言葉があった。
モース「他国民を研究するにあたっては、もし可能ならば無色のレンズをとおして研究するようにしなくてはならない。とはいっても、この点での誤謬が避けられないものであるとするならば、せめて、眼鏡の色はばらいろでありたい。そのほうが、偏見の煤のこびりついた眼鏡よりはましであろう。民俗学の研究者は、もし公平中立の立場を取りえないというならば、当面おのれがその風俗および習慣を研究しようとしている国民に対して、好意的かつ肯定的な立場をとり過ぎているという誤謬を犯すほうが、研究戦略のうえからも、ずっと有利なのである。」


 これらを読んでいて思うのは、幸せとは何か?である。著者の言葉にその一つの答えを見つけたように思う。
「四季の景物、つまり循環する生命のコスモスのうちにおのれが組みこまれることによって完結する生ーーーそれをこの時代の人はよしとしたのである。」
老子もこんな世界を夢見たのではないか。ふと、そう思った。「近代工業文明に対する懐疑や批判は、近代工業文明が成立した時からあった」という著者のことばは重い。


 今まで疑ったことのない民主主義にも多少の疑問を持つようになった。例えば、憲法生存権を保証されているのにもかかわらず日本中に浮浪者がおり、またみんながそれを黙認している。例えば、民主主義は自分自身を正しいと思いこんで、他国へそれをおしつけている。民主主義は悪い方法だとは思わないし、またそれに代わるようなものが思いつくわけではない。しかし、それを、全く疑わず過信するのはどうかと思う。そうして、戦争が起こるのだから。


 全くもってすごい本だった。新しい視点の提示。圧倒的な情報量。客観的な姿勢。多岐渡る(skycommu注、ママ)深い考察。


 もちろん、今さら前近代的な生き方を望むべくもない。だが、欧米人の記録を読むことによって、江戸文明の旅はできよう。ただに楽しくはなく、感慨深い旅である。


2004年2月4日】


高校二年の時の僕は、気に入った欧米人の言説をメモしていたようだ。
今読んでも、どの言説にも共感するし、心打たれる。
特に、ヒューブナーの自然に遊ぶ言葉。
「読者諸氏にはこういう言いがたい幸福感を思い描くことがおできになるだろうか。つまり、篠つく雨が絶え間なく朝から晩までどしゃぶりに降っていて、快い涼しさをふりまいているなかで、・・・庭に向かってぱっと開け放たれた瀟洒な部屋で、とても綺麗な畳に寝ころがっているという幸せを。」 
同じような身体感覚をあじわった人は少なくないだろう。僕とてそれは一緒だ。


どうして人はこんなにも自然を愛するのだろうか?


去年の今頃、僕はバイクをつれて一人で奄美に行った。
荒れ果てた林道を、バイクでひたすら走った。
友達と育った集落を、ひたすら徘徊した。
白化したサンゴの海を、ひたすら潜った。
砂浜と岩礁を、ひたすら歩いてわたった。
草木に埋没した観光地を、ひたすら探した。


自然に身をおくと、ワクワクする。
視覚が 
聴覚が 
嗅覚が 
味覚が 
皮膚感覚が 
内臓感覚が 
平衡感覚が 
運動感覚が鋭敏になる。
呼吸が静まり、荒くなり、そして静まる。
自然に遊ぶと、ドキドキする。


どうして僕は、こんなにもこんなにも、自然に惹かれるのだろうか?


《20080510の記事》