いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体
いじめの社会理論―その生態学的秩序の生成と解体
内藤 朝雄 柏書房 2001
【「BOOK」データベースより】
"世界のとらえどころ無き欠如"に始まる"全能感のもて遊び"と"集団の祝祭"の追求、"倒錯するタフネス"の変容の果てに具現するいじめ秩序を、心理的構造モデルと社会秩序の循環においてダイナミックに掌握。学校共同体主義の危険を指摘し、いじめ秩序を無化する自由な学校‐社会を原理と政策において探求する。
【雑感】
日本におけるいじめの原因やその解決方法を提言している。
まず、筆者は日本のいじめの原因は、日本が中間集団全体主義社会であるからだと断じている。
なによりまず、システム上の問題だというわけだ。
中間集団全体主義とは何か?
「各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政治的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂している場合に、その社会を中間集団全体主義社会という。」p21
なるほど、筆者のいうするように、日本社会はそうだよなあと思う。
上記の共同体の部分に、学校社会が入って起きる悲劇がいじめである、と筆者は主張している。
「このようにありとあらゆる生活活動を囲い込んで集団化する事細かな設計は、ありとあらゆることで「友だち」とかかわりあわずにいられず、自信の運命がいつも「友だち」の気分や政治的思惑によって左右される状態をもたらす。そしてあらゆる些末な生活の局面が、他者の感情を細かく気にしなければならない不安な集団生活訓練となる。立場や生存が賭けられた利害(「強者」と「弱者」の関係では生殺与奪!)の関係性は非常に密になり、生活空間はいじめのための因縁づけ・囲いこみの資源に満ちる。こういう環境では迫害に対して身を守るのが非常に困難になり、そのためのニーズが大きくなる。つまり共同体主義の学校は、身の安全をめぐる利害関係を構造的に過密化する。「生き馬の目を抜く」ように、いつなんどき「友だち」に足をすくわれるかわからない過酷な環境ではじめて、「身の安全」「大きな顔をしていられる身分」といった希少価値をめぐる、人間関係の政治が過度に意味をもつようになる。学校が全人的な「共同体の学び」となるよう意図された制度・政治的空間設計が、集団心理ー利害闘争の過酷な政治空間を生み出す。」p122
このような過密な人間関係によっていじめは起こると断じ、そのメカニズムを理論化している。
筆者のこの主張に対しては、その通りだと思う。決して新規な概念ではないが、いつまでたっても私たちは、この現実を直視できず、マスゴミを中心に全く不毛な議論を繰り返している。
筆者は、いじめを無くすためにも、中間集団全体主義を廃し、個人の自由を重視した社会への転換を主張している。筆者の意見にうなずきたい。
「自由な社会では、淘汰されるのは個々の人間ではなく、自己やコミュニケーションやきずなのスタイル(生のスタイル)である。この淘汰は魅力と幸福感を媒体とする。そして淘汰の受益者は、磨き上げられたスタイルを享受しながら多様に成長することができる自由な個々人である。」p269
けれども、多くの人はそれほど強くない。自分の考えやきずなを自由に選択できる人は多くない。そういう人は、もっとも近くにある集団に準拠することになろう。そういう人は特定の共同体に強制されて幸せになる。
筆者の提唱する自由な社会については、大衆のほとんどが強くないと、実現できない。(だから、実現はほとんど不可能。)だからといって、全くその主張を無視するわけではなく、私たちはくみとって、社会に生かしていく努力は必要だとは思う。
本書は、主として学校社会に蔓延するいじめについて論じたものだけれども、中間集団全体主義に苦しみ、欺瞞を叫ばざるをえない大人に向けた書でもある。
「大人たちは「子ども」のいじめを懸命に語ることで、実は自分たちのみじめさを語っているのかもしれない。私たちの社会では(国家権力ではなく)中間集団が非常にきつい。そこでは「人間関係をしくじると運命がどうころぶかわからない」のである。この社会の少なくとも半面は、普遍的なルールが通用しない有力者の「縁」や「みんなのムード」を頼らなければ生活の基盤が成り立たないようにできている。会社や学校では、精神的な売春とでもいうべき「なかよしごっこ」が身分関係と織り合わされて強いられる。そしてこの生きていくための「屈従業務」が、人々の市民的自由と人格権を奪っている。
大人たちは、このような「世間」で卑屈にならざるを得ない屈辱を、圧倒的な集団力にさらされている「子ども」に投影し、安全な距離から「不当な仕打ち」に怒っている。「子ども」のいじめは、自分の姿を映し出すために倍率を高くした鏡として、大人にとって意味がある。わたしたちはその投影をもう一度自分たちの側に引き受け、美しく生きるためには闘わなければならないことを覚悟すべきである。
問題はわたしたち自身だ。」p1
本書の理論は案外単純だと思う。けれども、わかりにくい言葉や専門用語?が多くて読みにくかった。それが少し残念。
いじめ問題というのは、僕にとってトラウマ的な問題だ。
僕はクラスメイトのことなんてたいしてどうでもよかったから、みんなを平等に扱おうとした方である。しかし、クラスに蔓延していたイジメに僕は応じて、嫌いでもない人を差別的にあつかったことが何度も何度もある。
その時、えもいえぬような激しい屈辱を感じた。いまでも、イジメという言葉を聞くだけで、その時の屈辱がよみがえってくる。
決して、虐められていた人を思っての義侠心ではない。
けれども僕は、この屈辱を忘れられない。世界中のイジメをぶっ潰したいと、幼いながらにそういう感情がわき上がる。
あの人の青春を奪い、地獄の日々を刻みつけたのは、ボクとミンナだから。
《20080908の記事》