悪童日記

超おすすめ!
悪童日記
アゴタ・クリストフ著 堀茂樹訳 1991 1 15 早川書房


 著者はかのミステリー作家アガサ・クリスティーとは何も関係ない。高い頻度で疑うと思ったから、念のため。


 噂通りすばらしい小説。


 訳者のあとがきがこれまた優れている。本書の筋書きの書かれているところをひっぱてみよう。
“ 時代は第二次世界大戦末期から戦後にかけての数年間、場所は中部ヨーロッパ、より正確には、当時ドイツに併合されていたオーストリアとの国境にごく近い、ハンガリーの田舎町と思しい。戦禍はなはだしく飢饉の迫る都会から、ある若い母親が双生児の息子二人を田舎に住む自分の母親、つまり息子たちの祖母の家に疎開させる。ところが、この祖母は、働き者だが文盲にして粗野、桁外れの吝嗇で身のまわりは不潔をきわめ、しかもどうやら、夫殺しの過去を引きずっているらしく、近隣の人々からは“魔女”と渾名されている。預けられた子供二人がこの老婆のもとで営むことになる生活は、物質的にも、精神的にも、過酷きわまりない。その上、全体戦争下の人々の生態は、彼らの眼前に文明の荒廃を容赦なく露呈する。が、そうした境遇に押しつぶされるどころか、この双子は持ち前の天才を発揮し、文字どおり一心同体で、たくましく、したたかに生き延びる。労働を覚え、自学自習し、殺伐たる現実から眼をそらさず、「冷酷さ」をわがものとし、恐るべき成熟に達していく。やがて終戦となり、少年たちは母親に再会し、さらに父親の訪問をも受けるのだが、(ナチズムのドイツによって)強いられた全体戦争から(スターリニズムソ連によって)強いられた全体主義体制への移行を背景として、彼らの物語は実に意外な展開を見せる・・・・・・”


 この小説に特筆すべきことをあげるとするならばやはりその文体だろう。本書の続編とされる「第三の嘘」(日本語版)の後書きにはアゴタ・クリストフの言説が少々載せられており、そこで本人が“目指していたのは、何喰わぬスタイルで人間世界の現実をきびしく暴く辛辣かつ残酷な情景もしくは寸劇を、一貫性のある形でいくつも連続させることでした。語り手ーーー単一の“ぼくら”という意識において一体化している双子の兄弟ーーーが、あらゆる主観性を、あるいは少なくとも、感じやすさのあらゆる痕跡を、情け容赦なく強引に排除し去った小説でした。”と言っているとおりだ。


 この小説「悪童日記」は双子の日記そのままなのだが、この冷たくも確実な文体、しいては冷たくも確実な子どもたちの眼は、残酷な現実を冷静に捉えている。訳者は次のように鋭く指摘する。“『悪童日記』の緊密かつ多彩なストーリーが、世界の現実から一時的に目をそらすためではなく、むしろ非情な現実を非情なままに白日のもとに引き出すための仕掛けとして機能していることに注意したい。(中略)死、安楽死、性行為、孤独、労働、貧富、飢え、あるいはまたエゴイズム、サディスム、いじめ、暴力、さらには戦争、占領、民族差別、強制収容、計画的集団殺戮など、普遍的なものであれ、歴史的色彩の濃いものであれ、シリアスな問題が随所に仕込まれている。その意味で『悪童日記』はまさに、二十世紀中部のヨーロッパの悲劇の底辺で人間を見つめようとした作品といえる”


 そして、読者は彼らの日記を見ることによって、読者は“主人公の双子がどう世界を発見し、彼らがその世界の中で、その世界に対して、どう行動したかを目撃する(後書きより)”のだ。この残酷で強い驚くべき少年たちがまざまざと見せる世界はなんとリアリティーを持っていること。少年たちの日記をとして私たちは、つい目を伏せてきた世界の真の姿に気づくだろう。


物質的にも精神的にも荒廃する戦争の現実を、まざまざと体現した素晴らしい小説。


 本書の続きとして「ふたりの証拠」、「第三の嘘」があるが、本書ほどの衝撃はなかった。修飾や感情を排した文体は健在だが、構成や主題の面で普通の小説にぐっと近づいているように思う。それをどう評価するかは各個人の問題だが、私はやはり「悪童日記」の衝撃を引きずって欲しかった。


なお、これら三部作はそれぞれ整合性のおかしいところがあり、同じ題材を使った別の小説ともとれなくもない。ただ、著者自身もこれらが三部作であることを否定はしていないし、地名や人物も合致する。少なくともそういうふうに読まれることを前提としていると考えてよさそうだ。そうしたとき、どれが本当で、どれが嘘なのか。真実はどっちなのか。読者は悩むことになるだろう。


もしくは、そういう悩みをする必要はないのかもしれない。断片化されたそれぞれの話は確かに整合性が取れないけれど、戦中、戦後、そして独裁的共産主義社会の元ではいくらもあった光景なのだろう。いや、特定の時代に関係なく全時代にあった、人間の織り成す光景だ。それらが織り合ってこの三部作ができた。この三部作は、ある時代のある地域を舞台設定とした、ある人々の記憶の集合である、そう考えればよいのかもしれない。


《20070416の記事》