確率の魅力

 私は、確率の問題を解いたり、考えたりすることが好きだ。その理由に、その分野が得意だったということもある。高校の時、なぜか確率の点数だけよかったし、人よりも数段早く解けた。数段理解が早かった。やはり自分の得意な教科・分野には興味を持つものだろう。


 だが上記以外に、私が確率に惹かれているわけがある。それは確率というものに、存在・現象に内在する別な姿を感じるからだ。


 別段、確率に神々の意志を感じるということではない。一つサイコロを例に挙げてみたい。


 立方体のサイコロの目は全部で六つある。それぞれの目の出る確率は(限りなく)等しい。そこで、三の目が出る確率を考えてみたよう。答えは別段悩むこともなく、1/6だ。1,2,3,4,5,6の6通りの内、3の1通りだから1/6だ。


 サイコロを振ってみる。一が出た。


 確率は間違っていただろうか?もちろんそんなことはない。なぜなら、三が1/6で出ると予測した裏側で三以外の目が5/6の確率で出ると予測しているからだ。まあ普通に考えれば、ひょいっとサイコロを振ってお目当ての1つの数字が出ることの方がずっとまれだろう。なにしろ他の目が出る確率の方が五倍もあるのだから。


 とかく、三の目が出る確率が1/6であるといる確率は、三以外の目が出るという現象もきちんと予測している。そして現実に目を向けてみると「立方体のサイコロを振ったら三が出た」という現象の裏側には、「立方体のサイコロを振ったら一が出た」「立方体のサイコロを振ったら二が出た」「立方体のサイコロを振ったら四が出た」「立方体のサイコロを振ったら五が出た」「立方体のサイコロを振ったら六が出た」というそれぞれのそうならなかった現象を内在しているのだ。


 これはランダムなものには全て言える。トランプのカードをひょいっと一枚引き抜いた時、スペードのキングが出たという現象にはその他のカードが出たかもしれないという現象を内在しているのだ。


 そしてサイコロを振ったらかくかくしかじかの目が出るというランダムな現象を表記するには確率を用いるしかない。もし予想が外れたとしても確率が間違っていたことにはならない。確率はそうならなかった現象も、当然、予測しているのだから。


 そう! ほぼランダムな現象(分子の動きなど)は確率で表現するしかないのだ! そして確率で表記することによって、起こらなかった現象・存在が見事に立ち現れてくるのだ!!


 以上が、私が確率に感じる魅力である。確率を常に意識することによって、そうならなかった現象・そうならなかった存在に目が向いてくる。私が意識することによって、そうなった現象・そうなった存在に、そうならなかった現象・そうならなかった存在が内在するのだ。


 それはサイコロやカードの例だけでなく、完璧な確率を求められない天気予報、確率を適用するには議論の必要がある人の人生にもいえるのかも知れない。されば、この世の現象・存在の全てには、そうならなかった現象・存在が内在しているといえるだろう。確率とは、そのような思想を誘発する神秘の言語である。


《20060501の記事》