薩摩義士

薩摩義士
財団法人鹿児島県育英財団 S58 6 30


 この本では今までとは違った視点や疑問を持つことの大切さを教えてくれた。


 宝暦治水工事はある程度有名であろう(少なくとも鹿児島と岐阜の人には)(両県交流や道徳心向上のネタに使われているので)。宝暦三年(1753年)、幕府は木曽川長良川揖斐川の整備を遙か遠方の国薩摩藩に命じる。幕府は他藩の力をそぐために、このような難事業をたびたび他藩に命じていたらしい。この工事の結果、水害の被害を受けていた木曽川長良川揖斐川流域の住民にはもちろん恩恵があったが、工事を請け負った薩摩藩は莫大な借金を抱え、かつ50名に及ぶ自殺者を出すに至った。この工事のため薩摩藩が派遣した武士たちを薩摩義士と呼ぶ。


 以上、宝暦治水工事の概略。


 何人かの著者がそれぞれ受け持って著したせいであろう。一つ矛盾したことを書いている所があった。それは、岐阜の人々がいつまでも薩摩義士の功績と彼らへの感謝を忘れず、後世に語り継いでいったという所と、それとは逆に鹿児島はもちろん、岐阜や三重の人々も薩摩義士のことをほとんど知らず、西田喜兵衛なる人物が彼らをたたえる運動を起こし、やっと有名になったという所における矛盾である。一方はみんな感謝して語り継いでいったよと書いてあるのに対し、もう一方はみんな忘れたよと書いてあるんだから大きな矛盾だ。


 私は真相を知らない。しかし、今まで前者の方だと思いこんでいた。たぶん一般的な鹿児島県の教育を受けていればそうであろう。だが、西田喜兵衛なる人物が運動を起こしたのは1900年頃。宝暦治水工事からはや150年あまり。世代にして8世代くらい?西田喜兵衛が運動を起こすまでどの程度、薩摩や岐阜の人々に認知があったのか、再考の余地は十分にあると思う。


 これは信仰、言い伝えのたぐいがどの程度の力を持って各世代に伝わっていったかを調べる上で、好材料だ。


 また、「工事は原則、現地の住民を使っていたため村民にとっては農閑期の貴重な現金収入となっていた」や「村の庄屋は工事に余ゆうがあるとみると、村々で連合して幕府役人と交渉し、自分たちの田んぼの仕事を、手伝わせてた」などといった驚愕の記述もみえる。


 幕府の薩摩に対する態度はただただ厳しいだけだったのか?村人は薩摩の武士に対しどのような態度でいたのだろうか?薩摩の武士たちは村民や幕府に対し、本当はどのような思いをいだいたのだろうか?


 幕府のいちゃもんに対し、薩摩藩はしかたなく、現地村民と協力して立派な堤防を作ったというように単純に物事を収めるのではなく、幕府、薩摩、そして現地村民が自分たちの利益を少しでも得ようとして、また損害を少しでも減らそうとして激しく攻防したものとこの宝暦治水工事をとらえる必要があると思う。


 私たちは一般的なイメージや薄い情報で物事をとらえてはいないだろうか?イラク戦争にせよこの宝暦治水工事にせよ。真相はそこら辺に転がっていない。テレビから流される映像がけして真実ではないのだ。教科書や薄っぺらい資料だけが真実ではないのだ。



 疑え。そして真相を知れ。


【宝暦治水とは? ウィキペディアより】
宝暦治水事件(ほうれきちすいじけん)は、江戸時代中期幕命による木曽三川木曽川長良川揖斐川)の治水事業(宝暦治水)に絡み、工事中薩摩藩士51名自害33名が病死し、工事完了後に工事を担当した薩摩藩士が引責自殺した事件。その後、幕末の薩摩藩による討幕運動の関が原と共に大きな伏線となる。


江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川長良川揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。


木曽川長良川揖斐川の3河川は濃尾平野貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流・分流を繰り返す地形であることからしばしば洪水を引き起こしていた。


1753年(宝暦3年)12月28日、正式に第九代将軍徳川家重薩摩藩主島津年に御手伝普請という形で川普請工事を命じ、翌年1754年(宝暦4年)1月16日薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付伊集院十蔵を副奉行に任命し、藩士を現地に派遣して工事にあたらせた。 幕府が工事を命じた背景には、薩摩藩の財政弱体化を目的としたものであった。


当時既に66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。財政担当家老であった平田靱負は強硬論を抑え薩摩藩は普請請書を1754年(宝暦4年)1月21日幕府へ送る。
同年1月29日には総奉行平田靱負、1月30日には副奉行伊集院十蔵がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名であった。
同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行う。砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。
最初の犠牲者
1754年(宝暦4年)4月14日永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害した。両名が管理していた現場を3度にわたり堤を破壊、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかりその抗議の自害であった。以後合わせて51名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。
幕府は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。
赤痢
1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ33名が病死した。


1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告する。その翌日同年5月25日早朝美濃大牧の本小屋で割腹自殺した。時世の句は


「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」


であった。
最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。大坂の商人からは22万298両を借入。


この工事による治水効果は3河川の下流地域300か村に及んだとされる。
しかしながら皮肉にも、堤完成後には洪水の回数がむしろ増加した。これは、完成した堤が川底への土砂の堆積を促したためと指摘されている。
近代土木技術を用いた本格的な治水工事は、ヨハニス・デ・レーケの来岐まで待つこととなる(明治改修)。
なお、1900年(明治33年)三川分流工事完成時に宝暦治水碑が千本松原南端に建てられている。
また、1938年(昭和13年)には藩士を顕彰するために平田靱負を祭神として治水神社(所在地:岐阜県海津市海津町油島(旧海津郡海津町))が建立され、85名の神霊が祀られている。
岐阜県海津市と鹿児島県霧島市はこれが縁で友好提携を結んでいる。
また、鹿児島県と岐阜県は、これが縁で県教育委員会同士の交流研修として、お互いの県に小中高校教員を転任させている。2007年より岐阜県では他県への教職員派遣を止める事にしたが、鹿児島県のみ継続している。


《20060317の記事》