「曇りなき眼で見定める」

もののけ姫」(スタジオジブリ宮崎駿監督、1997年)に以下のような主人公アシタカのセリフがある。

「曇りなき眼で見定める」


最新の兵器、銃で苦しみながら死んだイノシシの神。もののけ姫の主人公であるアシタカは、その呪いを受ける。呪いの原因を追い、製鉄業を営む城にたどり着く。イノシシの神が銃弾を受けたのは、その城の主、エボシが、製鉄の燃料を確保するため、近辺の森を切り倒したのが原因だった。イノシシの神はエボシに森の復讐をしようとしたが、逆に返り討ちにあったのである。エボシは、呪いの原因を知ったアシタカに、これからどうするのか?と問う。その際、アシタカが発したのが、
「曇りなき眼で見定める」
という言葉なのである。


このシーンはけっこう有名な場面だと思う。初めてこのセリフを聞いたとき。なにかっこつけてんねんw、プギャーw、ハイハイワロスワロスw、って思った。一つには、呪いの正体を知ったアシタカがあまりに冷静すぎると思ったからである。


しかし最近、この言葉、すっごく重いと思うようになってきた。なぜなら私たちは、あるものごとに対して、完璧にありとあらゆる情報を得、ありとあらゆる多様な見方をし、正しい判断をすることが不可能であるからだ。人間の感覚器官には、限界がある。また、時間的空間的制約から、全ての情報に接し、さまざまな視点を、すべて獲得することは原理的に不可能である。


以上のようなことは、以前、このブログでも書いた。参考:http://d.hatena.ne.jp/skycommu/20081118/1226968111
もちろん、正しい判断や完璧な選択がないからといっても、それらをしていかなければ、社会はまわってゆかない。責任ある立場にある者は、とかく、正しいらしい判断をしていかなければならないのである。


しかしこの世には、一個人ではどうにもならないことがあまりに多い。このように考えることは努力を放棄し、よりよい生、社会をめざすことをあきらめることにつながるから要注意である。しかし、現実問題として、一個人では、この世のほとんどはどうにもならない。そういえば、もののけ姫は環境問題に正面から取り組んだ作品であると一般によく言われる。しかしもののけ姫の中では、自然と人間の安易な共生は描かれず、むしろどこまでもすれ違う両者が顕在化しただけではないのか。
もののけ姫」にはシシ神という、自然全体の象徴たる神がでてくるが、結局それは人の欲望の中で殺害されてしまった。荒れ狂ったシシ神は消滅するとき、多少、自然を回復させる。それにより、もののけ姫のクライマックスは穏やかなものになったといえるだろう。しかしやはりシシ神は殺され、自然と人間はどうあるべきかという問題は決定的にはその解決の糸口が見いだされない。問題はただ顕在化され私たちの前で浮遊するだけである。いや、ただ顕在化されているというよりもやはり、今世紀の私たちにつながる、自然と人間の破滅的な関係が暗示されているといった方がよいのではないか。


以上のように、「もののけ姫」では、自然と人間とはどうあるべきかという大問題に対し、解決は示されない。ある意味当然である。だれもその決定的な答えをだしていないし、だせないからだ。多くの人はだそうとすらしない。環境問題のように、一個人ではどうにもしがたい問題は山ほどある。食料は余るのに、多くの人が食うものがなく死に、戦争という名の集団的殺し合いはなくならず、また、社会的圧迫から自殺に追い込まれる人もいる。それらの問題に直面したとき、私たちは、「曇りなき眼で見定める」他ないのではないだろうか。


「曇りなき眼で見定め」た先に何があるのか分からない。残酷な現実か、人間に対する絶望か、変わらない日常か。しかし何らかの解決の糸口の糸口がなんとか浮かび上がってくるのだとしたら、この「曇りなき眼で見定める」という姿勢の先であるのもまた事実であろう。


「曇りなき眼で見定める」


僕はそういう女性が大好きだッw



※「もののけ姫」では、自然と人間はどうあるべきかという問題は解決されず、問題はただ顕在化されるだけであるということは、前々から考えていた。しかし、それを言語化する前に、この点について同じように指摘している言説を読んだ。それは以下である。
「さらに「もののけ姫」を読み解く ―「曇りなき眼」で何を見定めるべきか―」(叶 精二、1997年)
http://www.yk.rim.or.jp/~rst/rabo/miyazaki/sarani_yomitoku.html
僕の上記のエントリーは、リンク先の指摘の影響を受けている。